kohnoのブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 放射能ゾーンの子供たち

<<   作成日時 : 2012/09/04 09:30   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

↓kohnoのブログ全体の【案内】
http://kohno.at.webry.info/201206/article_18.html

放射能ゾーンの子供たち

放射能ゾーンの子供たち

1988年現在でのソ連国内におけるセシウム137による土壌汚染の評価

ガンマ放射線レベル

画像

イワンとミーシャの会 訳編




(1991年4月)
006
(会のシンボルはスタジオ・クレイの水戸さんのデザイン)

----- 表紙 -----

001「チェルノブイリ原発事故から1000日」
http://kohno.at.webry.info/201202/article_9.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201202/article_10.html (その2)
002「チェルノブイリ/その過去と今後の展望」
http://kohno.at.webry.info/201202/article_13.html
003「チェルノブイリ・ノート」より
http://kohno.at.webry.info/201202/article_34.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201202/article_35.html (その2)
004「チェルノブイリのこだま」
http://kohno.at.webry.info/201202/article_42.html
005「チェルノブイリの後遺症は続く」
http://kohno.at.webry.info/201205/article_1.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201205/article_2.html (その2)
006「特別な注意を要する地域」
http://kohno.at.webry.info/201206/article_14.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201206/article_15.html (その2)
007「放射能ゾーンの子供たち」
http://kohno.at.webry.info/201209/article_2.html


(まえがき)

 「放射能ゾーンの子供たち」は、文学新聞(1989.07.26)に掲載されたものである。たった一度の原発事故が、住民の故郷を奪い、国や地方の財政を脅かす。
 放射能によって光る魚。放射能によって光るキノコ。そこはどんな世界なのだろうか? 全てのキノコが毒キノコになる世界とは!?。
 「1988年現在でのソ連国内におけるセシウム137による土壌汚染の評価」は、学術雑誌アトムナヤ・エネルギア(68, 1990)に掲載された放射能汚染状況を示す論文である。いわゆる‘御用学者’の書いたものである。内容は別として、汚染の広がり(過去の核実験の影響をも含めて)を知る上で参考のために掲載した。
 「ガンマ放射線レベル」は、ソビエツカヤ・ベロルシア紙(1990.04.18)に掲載された、各地の放射線レベルである。同じ記事がこの後、時折新聞紙上に見られるようになる。

----- i -----

放射能ゾーンの子供たち

項目

放射能ゾーンの子供たち   ・・・・・・・・・・ 1
 1.事実   ・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
 2.学校   ・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
 3.秘中の秘   ・・・・・・・・・・・・・・ 7
 4.さらなる事実   ・・・・・・・・・・・・ 9
 5.チェルノブイリ―――それは常に現在 ・・・ 11
 白ロシア共産党モギリョフ州委員会第一書記
  ヴァシーリ・S・レオーノフの解説   ・・・ 13

1988年現在でのソ連国内における
 セシウム137による土壌汚染の評価   ・・・・・ 16
  ソ連国内のセシウム137の分布    ・・・・・ 18
  ソ連ヨーロッパ地域のセシウム137の分布  ・・ 20
  カフカス地方及び外カフカス地方の
   セシウム137の分布    ・・・・・・・・・ 21
  参考文献   ・・・・・・・・・・・・・・・ 24

ガンマ放射線レベル   ・・・・・・・・・・・・ 25
----- ii-----

【文学新聞(1989年7月26日付)より】
深澤 洋子 訳

放射能ゾーンの子供たち
イーゴリ・シクリャエフスキー

1.事実

 チェルノブイリからきた雲は、白ロシアに舞い降りた。
 放射能のほこりが、牧草地に、カシの森に、家々の屋根の上に、プリピャチ川やソーシ川の静かな流れに、庭や野の小道に、湖や沼地に降り積もった・・・
 ゴメリ州及びモギリョフ州にある12の地区の500以上の村々がセシウム137、ストロンチウム並びにプルトニウムで覆われた。
 事故から3年が経って、汚染地区の地図が公表された[脚注1]。

--------------------------------------------------------------

[脚注1]198時2月9日付ソビエツカヤ・ベロルシア紙に掲載された放射能汚染状祝に関する地図。当会発行の冊子001、「チェルノブイリ原発事故から1000日」に掲載してある。その後、1989年3月20日付プラウダ紙に全体の汚染状況を示す空間線量率分布が、また199時4月20日付ソビエツカヤ・ベロルシア紙には白ロシア共和国内の表面汚染密度を表す地図が掲載された。いずれも当会発行の冊子002「チェルノブイリ:その過去と今後の展望」及び冊子006「特別な注意を要する地域」に掲載してある。

----- p.1 -----

退去ゾーン[脚注2]
隔離ゾーン
厳重管理ゾーン

 黒い点と縞に覆われているのは、モギリョフ州のスラヴゴロド、チェリコフ、クラスノポーリェ、コスチューコヴィチ、クリモヴィチなど250の村や町である。ゴメリ州とモギリョフ州の間に、地図の上では何の印もついていないブリャンスク州の一部が食い込んでいるが、それは神がそこだけを手で覆ってくれたからではない。汚染地域は、白ロシア共和国の範囲内でしか記入されていないのである。
 モギリョフ州に最初に専門委員会が訪れたのは、チェルノブイリの爆発事故の数カ月後であった。こんな所にまだ子供たちが残っているとは・・・、と委員会のメンバーは驚いた。
 その後、次から次と委員会はやってきた。
 「住んではいけない。住民を移住させなけれれば。」と言う人々もいた。
 別の人々は、「住んでも構わない。だが、森でとれた物や菜園の物を食べてはいけない(これは私たちに食糧を供給している村や地方都市での話である!)。」と言い、牛乳を飲むことを禁じた。
 一言付け加えておきたいのは、白ロシアの農村ではめったにお茶を飲まないということである。大昔からの習わしで、キセーリ(濃い果物ジュース)や白樺の樹液を飲んできたが、主たる飲物は自家製の搾りたての牛乳である。

----------------------------------------------------------------

[脚注2]各ゾーンの呼び方を冊子001と対比すると次のようになる。「退去ゾーン」=「住民避難地域」、「隔離ゾーン」=「無人地域」、「厳重管理ゾーン」=「常時監視地域」

----- p.2 -----

 汚染地域の住民の給料には、「葬式代」として30ルーブルが加算された。ところが風の気まぐれで、通りの片側の人はそのお金を受け取り、反対側の人は受け取れないことになった。しかし、牛は同じ牧草の草をはみ、子供たちは通りを越えて走り回る。そして、その気まぐれな風がほこりをあちこちに運んでゆき、やがてセシウムとストロンチウムは地面にしみこんでいった。今では、モギリョフ州保健防疫所の放射線衛生学部長アレクサンドル・ペトローヴィチ・メリニコフ氏の言葉によれば、汚染は根底的なものとなった・・・。
 これも事実、これから述べることも事実のみである。
 人が健康を保つためには、人生70年の間に35レム(線量当量)以上被曝してはならない[脚注3]。
 モギリョフ州の一部の村の住民は、3年間ですでに20レム以上の被曝をしている。
 子供は相対的に大人より多くの放射線を「浴びる」。それは背の低さと自然環境、つまり地面に近いほど放射線が強くなることと、さらにその大地がチェルノブイリからの放射能に汚染されていることによる。
 チェルノブイリまたは白ロシアでの基準は15キュリー(1平方キロメートル当り)。それ以上の場合は厳重管理ゾーンである。
 チュジヤヌイ村(チェリコフ地区、国営農場ズナーミャ)147キュリ

----------------------------------------------------------------

[脚注3] 国際放射線防護委員会の旧来の勧告である、一般公衆に対する年間の被曝線量の許容基準0.5レムが元になっている。現在ではその勧告は、年間1ミリ・シー1ベルト(=0.1レム)となっている。ただし被曝線量については、これ以下なら安全というような値(しきい値)はない、という考えが一般的である。

----- p.3 -----

 ノヴォイエリニャ村(クラスノポーリェ近く)―― 92キュリー・・・
 ドロゴミーロヴォ、ゴトーヴェツ、ザボリャーニエ、サモチューヴィチ、ヴィソーキイ・ポロク ―― など38の村の放射線環境が40キュリーまたはそれ以上。
 184の村が厳重管理ゾーンにある。
 540箇所の居住区で《汚染》牛乳が見つかった。72箇所では牛乳の汚染度が基準の10倍に達し、農場によっては基準の100倍(!)に達したケースもあった。
 白ロシア共和国科学アカデミー副総裁アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・スチェパネンコは、これらの村に人々が居住することは不可能だと考えている。病気が増えたり、予測できないような結果が出現するのはこれからである。長期にわたって少量の放射線を浴び続けることは、短期間に多量の放射線を浴びるよりも危険なのである。

----- p.4-----

2.学校

 専門委員会が来る以前、つまり事故後最初の半年間は、そしてまた元気のあるうちは、汚染地域の子供たちは放射能に汚染された牛乳を飲んでいた。
 もちろん、警告はあった。だが牛の乳を搾ってから、それを地に撒くなどということが、農家の主婦にできるだろうか。毎日乳搾りをしては、その牛乳を捨てるなどということができるだろうか。それに、そのチェルノブイリとやらはどこにあるのだ。300キロものかなたではないか・・・。それに状況を把握しているのは誰一人としていない。こんなことは今まで一度もなかったし、誰もが汚染されたのは自分の村ではないと信じていたいのである。チェルノブイリ原発事故の最初の年に、モギリョフに住む私の友人は言った。「やってやるさ、前と同じにね。」
 ついに事態の悲劇性の全てが理解されたとき、子供たちは学校の塀の中に閉じ込められた。走り回ることも許されず、川も、窪地も、森も、庭も、フットボール場も、野原の曖かい小川も奪われてしまった。学校は食糧の運び込まれる兵舎と化した。教師が足りない、医者が足りない、店も足りない。汚染地域では、彼らは交替制で働いているのである。
 ある学校では、体育の教師が(名前は伏せておくが)数学を教えている・・・。その教師はわが身のことも忘れ、交替制を拒否した。ところが彼はモギリョフに住むフィアンセに拒絶された。彼女が突きつけた問いはこうだ ―― 私か、放射能か。
 たくさんの子共たちに貧血の症状が現われている。それが放射能によるものではなく、運動不足や食べ物の悪さのせいだという医者の断言も慰めにはならない。親たちは自分の菜園で採れた果物を子どもに与えることをもはや恐れている。特に貧血の症例が多いのはクラスノポーリェ地区である。アスファルトの上や学

----- p.5 -----

校の塀の中に追い込まれた若き放射能の囚人たちは、老人のような生活を送り、視力が弱り、心も病んでいる。
 ただちに子供たちをその両親とともに移住させるべきだ。さもなくば学校にポスターを貼るがよい ―― 「科学は犠牲を求める」と。
 親たちももう黙ってはいない。
 「なんで私たちがこんな土地に。畑も牛もないなんて・・・」
 「選ぶ権利をくださいよ・・・」
 「家の補償金をくれたら、自分からでていくさ・・・」
 「一体わしらは実験用のねずみかい。」
 彼らはすでに別の汚染されていない地域へ招かれ、自ら居住地を選び、移住を承諾した。 ―― ところが金がない。全家庭に家の補償金を支払うには、数百万ルーブル必要である。
 いつだったか私は北の地方で嵐にあい、見知らぬ家の戸を叩いた。一夜の宿を乞うと、主人が言った。「恐縮することはありませんよ。家はしょって歩くものじゃなし。」
 放射能に追われていく人たちも、家をもっていけるわけではない。人々が貧しい親戚として越してゆき、肩身の狭い思いをしたりすることのないようにしなくてはならない。そしてそもそも、故郷を永久に捨て去るということ、これは容易ならざることである。

----- p.6 -----

3.秘中の秘

 クローバーの草原、ソーシの白い断崖、静かな小川ブローニャ。幾度その崖の上で焚火をしたことだろう。幾度干草の山の中でクローバーの香りに包まれて夜を過ごしたことだろう。日が昇ると、枯れた花を髪にくっつけてねぐらから這い出したものだ。前チェルノブイリ時代の花粉を払い落しながら。
 今やこの草原にはセシウムが潜んでいる。
 思い出すのは、小川から街道まで歩きながら、クローバーをしゃぶったり、イチゴやコケモモの実を口いっぱいほうばったり、キノコをとったりしたこと。チェルノブイリまでは・・・。
 だが今、人は熟したイチゴのそばを冷たく通り過ぎる。白キノコのそばを冷たく通り過ぎる。魚のはねた後の、水面に広がる水の輪をよそよそしく眺めている。
 あれもだめ、これもだめ、それもだめ・・・。人類史上初めての、遺伝的記憶の破綻。幼年時代のアスファルトの袋小路、感受性の密やかな死滅。実際、意識の中で、喜びや幸福や探求心や生命への感謝の念の源は枯渇しつつある。
 そして残るものは。
 怠惰、恐怖、冷淡、無関心。それらがどんどん大きくなり、意識の中の平衡は破られた。目に見えないチェルノブイリの悲劇は、心理学者によっても、哲学者によってもいまだ認知されていない。
 見よ、一人の少年がバルカラボフの森かスラブゴロドの近くのどこかで、真っ赤に熟したイチゴを見つめている。煙草の煙に汚されていない子供の喉や柔らかい粘膜は、大人の一千倍も敏感にそのおいしさを予感する。もぎ取って食べたいという誘惑は、地方新聞の警告を打ち負かす。若い肉体の細胞の一つ一つが生きることを欲している。千年培われた経験は、指示を認めようとせず、この熟し

----- p.7 -----

た実の中に赤血球を殺すセシウムやプルトニウムの恐ろしい力が潜んでいるということを納得しない。たとえこの少年が希にみるほど分別のある聞き分けのよい子だったとしても‥・。
 《汚染された》イチゴと、歓喜の情の麻痺や魂の貧困とをくらべて、どちらが危険か誰が言えよう。
 この土地を、それも最も肥沃で最良のものとはいえない土地を失うことを恐れてはいけない。森や草に覆われるにまかせ、休ませ、浄化させ、それから我々の曾々孫がそこへ帰ればよい。もうこうなった上は、ジャガイモや穀物の計画が達成されないことを恐れてはいけない。土地は十分にあるのだ。あとは働き手と家長さえいればよい。
 ・・・私の少年時代は、廃虚の中で、ポケットの中の一片のパンとともに過ぎ去っていった。しかし、半ば飢えながら凍えながらも、それでも我々は放射能の囚人たちよりは幸せだった。我々に貧血はなかった。ブリキ缶の中には一万四千個のコケモモの実が入るのだから。ゴメリからモギリョフへ向かう道で、同じ方向へ向かう車を待ちながら数えたのだ(その頃、車はめったに走っていなかった)。一万四千回の医療行為のように機械的なものではない。心踊る楽しい行為である! 掌の中でリンゴの清らかな露がつつっとすべる。焚火をしても、煙と一緒にセシウムを吸い込む恐れはなかった。

----- p.8 -----

4.さらなる事実

 人々は畑をうち捨て、牛や豚や羊を飼うのをやめた。
 ドゥブラハ国営農場(コスチューコヴィチ地区)ではミンスクから来た請負労働者たちが飼育場を建て始めたが、放射能が1平方キロメートル当り8キュリーだと知ると、仕事を放り出して帰ってしまった。
 モギリョフの修理工場にトラクターや乗用車のエア・フィルタ一一が送られてきた。放射能検査がなされ、修理は拒否された。・・・
 農民、畜産農家、トラクター運転手、森林作業員、彼らの子供たち(いわゆる危険性の高いグループに入る被検査住民の10%)が基準値以上の外部被曝を受けて暮らしている。
 汚染された村には、初めのうち干草や飼料が運び込まれたが、それでも結局のところ牛乳は《汚染》牛乳であった。
 専門委員会のメンバーは確約した。
 「一年後には、ここでもきれいな牛乳がとれるでしょう。」
 一年経ち、人々は言う。
 「来て、答えろ!」
 すでに一億ルーブルもの資金が、道路の舗装と幼稚園の建設に費やされたが、いずれにしろ、ここからは出ていかざるをえないということが解ったのである。
 特に《熱心に》放射能を蓄えているのは、クローバーや蕎麦である。キノコはずっと《汚染》されたまま。際だってひどいのは、イグチ、チチタケ、カラハッタケ、カラハツ。あらゆるキノコは毒キノコになってしまった。
 魚が《光る》。これは、魚が水中の量の100倍、1,000倍もの量の放射能を
《蓄積》するためである。

----- p.9 -----

 漁師たちが、様々な場所でとれた魚を保健防疫所に持ち込んできた。獲物は《汚染》されていることもあれば、されていないこともある。漁は中止され、数少ない喜びのうちの一つが失われた。
 白ロシア国立大学の学生たちが、ジャガイモの収穫にクリコフカ村(スラブゴロド地区)にきた。しかし、学生の親たちは子供を連れ帰ってくれと要求した。バスが迎えにきて、学生たちをミンスクに連れ戻した(もっとも、その半数は帰ることを拒否した)。このことは、この地区の住民の全員が知るところとなった。そこで人々は質問した。「学生たちがたったの一月も私たちのところで暮らせないというのに、私たちや私たちの子供たちが暮らせるというのは一体どうしたわけだ。」
 痛ましい問いは宙に浮いたままだ。
 10年後、より完全な測定器が現われたときわかるだろう。《基準》があまりにもなおざりに決められていたことや、《当時の科学技術における》全ての成果が考慮されていなかったことが。歴史は繰り返されるのだ。
 大地が、清らかな大地が我々に与えてくれるものをすべて取入れ、保存することをができるようになるのなら、私たちはどんな苦労も惜しまないだろう。
 「元気かい、イーゴリ!
  アレクサンドロフカから大鹿の肉が運ばれてきたんだ。保健防疫所で検査して、埋めたよ。
  鯉を調べたら、光ってる。
  キノコを調べたら、光ってる。燦然とね。
  僕は家を売った・・・
                           君のエム・シヤーより」
モギリョフからの手紙だ。

---- p.10-----

5.チェルノブイリ ―― それは常に現在

 夏休みになった。ハイキング、魚釣り、焚火を囲んで野宿。汚染地区に住むことが可能だと考えている人たちは、モギリョフ州かゴメリ州の静かな村のどこかに自分の孫を送り込んだらいいではないか。そこには素晴らしく美しい草原と、キノコや果実の森があり、ソーシでは魚がよくとれるし、プリビャチの干上がった川床にはザリガニがいて手で捕まえられる。そして涼しい干草置場の刈り取られたクローバーの上で眠るのはなんと気持ちのよいことだろう。下では牛がもうと鳴いている。
 楽天家の専門家たちよ、自分の孫を送り込んで、鈍愚なる民の恐怖や流言を全て吹き払うがいい!
 私は国民に呼びかけよう。確かに支出が多すぎて、我々はもはやあまり同情的ではない。だが最も計算高く、最も冷淡な人間でさえ、近い将来を思えばわかるはずだ。放射能汚染地域の移住者たちに金を支払うことによって、自分や自分の孫たちの健康をも守ることになるのを・・・
 つまり、あなたがたの子供はたちまちのうちに大きくなり、大学に入り、同じようにその大学や技術専門学校に入ってきた汚染地区の子供たちと出会うだろう。必ずや出会うだろう。彼らは愛し合い、あなたがたの子供は彼らの妻や夫となる。そしてあなたがたに、放射能の後遺症をもった孫が生まれる・・・。子供でなくても、孫か曾孫がきっと結婚する。そして一族の家系にセシウムが忍び込む。
 白ロシア人は、穏やかだが誇り高い人たちだ。彼らはヒステリックにもならず、戦争と荒廃の時代にその十字架を背負ったように、チェルノブイリの十字架を背負っている。

----- p.11 -----

 3年間、この恐ろしい目に見えない十字架を背負っているのだ。時は大地の傷を癒し、繰り返される戦火の焼け跡にもしだいに草が生い茂り、洪水も忘れ去られる。だが、チェルノブイリは3年後も30年後も現在なのだ・・・。そしてチェルノブイリ原発事故から時が経てば経つほど、危険は増加する。ゾーン内に住む人々は、日毎に多くの放射能を取り込んでいるのだから。
 放射能に過去はない。あるのはただ今日、明日、あさって・・・。それは、老いも若きも区別はしないが、特に好きなのは柔軟な脊椎と柔らかい白いうなじを持った子供たちだ。
 私は、白ロシアの不幸について、また私の幼年時代のこの地について話した。巨大な原子力発電所を止める力は私にはないが、全人類の憐憫の情に期待をかけ、ここに、作家たちが主唱して白ロシア閣僚会議が開設した口座、モギリョフ州とゴメリ州の移住者たちを援助するための口座番号を記す。
700073 Минск ОПЕРУ Белреспжилсоцбанка СССР МФО 40019

----- p.12 -----

白ロシア共産党モギリョフ州委員会第一書記ヴァシーリ・セヴァスチャーノヴィチ・レオーノフの解説

 詩人イーゴリ・シクリャレフスキーの記事は、わが国の社会一般に未だ知られていないチェルノブイリの悲劇の実態を明らかにするものである。今日、放射能の被害を被った白ロシアの多くの地域における状況は、非常に複雑である。
 そもそも初めから放射能の影響を真剣に評価し、可能な対抗措置を取ることを妨げていたのは、いわゆる放射能の《許容基準》、つまり危険と安全を仕切る基準のめまぐるしい変更である。この基準はすでに3年にわたって《跳躍》し続けている。例えば1986年の許容線量70レムは後に50レムになり、今や35レムである。この35レムも引き下げられないという保証はどこにもない。
 《跳躍》しているのは土壌汚染の基準も同様で、しかもやはり下がる傾向がある。しかし、住民の居住計画の全ては、この基準に基づいて立案されるのである! 医学者たちは今日、最も危険なのは強い放射線ではなく、絶えず放射線にさらされることであると断言している。少量の放射線の人体に対する影響が致命的であることは今や認められており、従って人々がこの災いと取り組むために、なんらかの支援措置を取る必要があるのだ。
 国による総合的な住民移住計画を待たずに、我々は自ら計画をたてた。地方農芸化学試験場の基盤の上に特別の研究所を開設し、土壌のサンプルを採取して、自分たちで検査している。我々は、何も必ず全員を移住させることを目的としているわけではない。ある地域がどれほど汚染されているのかを、はっきりさせたいのだ。もっともそれも、現代の機器にも誤差があり、しかも何キュリーが危険で、何キュリーだともう危険でないのかまったく不明なのであるから、容易では

----- p.13 -----

ない。その後に初めて率直に告げるのだ。ここに住めない、移住した方がよい、ここは住めるが危険だ、引っ越した方がいいですよと。そして、住民自らどうすべきか選んでもらう。我々のアンケートによれば、住民の約7〜10%を占めるお年寄りの大部分は、そのままそこに残ることを望んでいる。実際、住み慣れた土地を捨て、血縁その他の絆を断ち切るということは大変なことなのだ。それにどこに移住するのか。これも単純な問題ではない。住民をバスで運び、候補地を選んでもらう。国はこうした移住計画への助成を約束しているが、15億ルーブル以上はかかるだろう。赤字を抱える我々にとって、これはとてつもない額である!
 現在約千三百万いる州の住民のうち、早急に移住させなければならないのは三千三百人である。そして彼らを最終的に移住させるためには、抽象的・学問的な計算ではなく、普通の人間にとって、生きていく上で何キュリーまでの汚染が許されるのかを決定しなくてはならない。さらに、汚染された土地の管理。これは10年かそこらの厄災ではないのだ! いま我々は、土地の除染作業のために巨額を投じているが、いずれにしてもその土地からは出ていかざるをえなくなるだろう。
 生活の可能なところで、正常な生活を再建するための措置はまた別の問題である。除染作業、土地改良、石灰散布、深いすきおこし、大量の施肥、等々。このような手当を必要としているのは、現在我が州の土地の40%にものぼり、その中にはチェリコフ、スラヴゴロドといったいくつかの地方都市も含まれ。これもまたかなりの資金、10〜15億ルーブル以上を必要とする。

----- p.14 -----

 しかし、お金よりはるかに我々みんなが今日必要としているのは、真の情報公開である。思い出すのも恥ずかしいことだが、私が事故そのものについて知ったのはみなさんと同じ事故の二日後のことで、それも完全にではなかった。惨事の本当の大きさが明らかになったのは(私の知る限りでは)、6月になって、つまり事故から二ヶ月後のことであった。その後、70レムから35レムへの一連の引き下げが始まった。半分である! これに対して人々が示した反応、そのことで私が彼らに言われたことは理解しうる。しかし、わたしは怒ってはいない。彼らが州の党指導部に完全なる真実を求めるのはもっともなことなのだ。
 人々と率直に話し合うべき時がきたと私は思う。自分を災害の人質だと感じるような人間がいてはならない。この感情から解放されさえすれば、もつれた糸も解きほぐれるであろう。

----- p.15 -----

【アトムナヤ・エネルギヤ 68, pp.262-264, 1990.04.04】
河野 益近 訳

1988年現在でのソ連国内におけるセシウム137による土壌汚染の評価
マホニコ,K.P., ラボトノワ,F.A., ボロキチン,A.A.

 文献[1]に、さまざまな地点での空間ガンマ線スペクトル測定法による測定データを検討して得られた、1974年現在の長寿命核種による土壌汚染の状況が報告されている。これまでにも、核実験起源の核分裂生成物が大気中から降下して土壌に蓄積することによる放射能汚染が存在した。その後10年間は、地表面の土壌に含まれるセシウム137の蓄積量を著しく変更するような、大気から地表面へのセシウム137の新たな追加はなかった。従って、1974年に作られた汚染地図は実際には少しも変わらなかった。
 しかし、1986年(4月26日)のチェルノブイリ原発事故によって、対流圏におよそ1MCi【3京7千兆ベクレル】のセシウム137が放出された。その結果、セシウム137の集中的な降下により広大な領土が新たに汚染された(文献[2])。まず最初に、セシウム137により高濃度に汚染された地域の新しい汚染地図を作成するという緊急作業が決定された。測定方法としては、空間ガンマ線スペクトル測定法が用いられた。このような測定方法で最初に発表された総合的な成果が、わが国のヨーロッパ地域における汚染地図である。その地図には、セシウム137の土壌汚染密度が2〜5Ci/ku【74,000〜185,000 Bq/u】とそれ以上の汚染の等高線が記入されている(

----- p.16 -----

文献[3])。
 ここではさらに、わが国全土でのセシウム137による土壌汚染が1Ci/ku【37,000 Bq/u】のレベルに関する情報を上記のデータに追加する。大気中からの降下による放射性物質の地表面への蓄積を計算をするにあたっては、ガーゼ製の測量平板を使って各気象観測所で得られたデータを用いる。同様な方法で1983年まで実施された大気の降下による核実験起源のセシウム137の土壌中での蓄積に関する計算結果は(文献[4])に示されている。計算に際しては、大気から土壌へのセシウム137の実際の降下量とその半減期が考慮される。土壌中と地表面での水の移動にともなうセシウム137の移動は、この同位元素が土壌が吸収する錯体として固定されている限りにおいて比較的安定であるため、無視することができる。
 汚染地域の地図を作成するにあたって、1986年までに大気の降下による土壌中のセシウム137の計算結果との比較がおこなわれ、計算とデータの間に満足のゆく一致が得られた。そこで、最初の資料(文献[1])が半減期を考慮して改訂された。蓄積過程に関する研究は1945年に始まった。その年は、核兵器の実験が始まったことによって、大気からの放射性降下物が急激に増大した年でもあった。チェルノブイリ原発事故の後で、原子炉から放出されたセシウム137の土壌への蓄積の主要な部分は、最初の爆発によって作られた放射性雲からのセシウム137の降下とその後放射能を含んだ雨が降ったことが原因であった。それ以後夏の期間は、高レベル汚染地域からの風によって移動する放射能を帯びた塵が観測された。この移動は、高濃度汚染地帯を示す放射能汚染密度の等高線の状態に影響を及ぼすことはない。しかし、より遠くの地域における大気中からの放射性降下物に関するデータに著しい影響を与えた。この放射性降下物による高濃度汚染地域から数百キロメートル離れた地域の土壌中のセシウム137の蓄積への影響は1989年の終わりまで追跡調査された。事故後の2年間に放射性降下物の量が非常

----- p.17 -----

画像


----- p.18 -----

に減少したので、汚染地域から遠い観測地点では、風による《局所的な》放射能を帯びた塵の舞い上がりと降下による明かな寄与は止まった。この放射能を帯びた塵の舞い上がりと降下による汚染レベルは小さかったので、実際には、国内のセシウム137の汚染分布を変えなかった。従って、このような方法で作成された汚染地図を最終のものであるとみなすことができる。
 図1は、大気中からの放射性降下物の測定結果から求めた、ソ連国内におけるセシウム137の土壌表面の汚染密度である。最も関心のある汚染の勾配のより大きい国内の地域は、大きい縮尺の図2, 3に示した。当然のことだが、使用された方法は空間ガンマ線スペクトル測定法のように高い精度を持っていない。それ故、等高線を引く際には平滑化が行われ、地図の細部においては精度が悪くなり、すでに知られている境界線が目だたなくなってしまった。このような平滑化は自動的に、個々の試料に混入した《熱い》粒子(ホット・パーティクル)によって生ずる誤差の可能性を除去する。
 汚染地図はほとんどがこのような方法で作られ、土壌中のセシウム137の含有量を直接測定した結果ではない。それ故、慎重さから、それを国内におけるセシウム137の汚染分布の中間的評価と考える。このような地図は、より詳細な直接的な調査を必要とする地域を選択するための基礎として利用できる。
 図1〜3から、セシウム137のレベルが1Ci/ku【37,000 Bq/u】以上の汚染地域がわかる。その地域は、南はキエフの北側からロブノにかけて、西はピンスクの東側、北は北西側の起点がパラノヴイチの南側からモギリョフ、ロスラブリを経てトウーラまで、南は東側の起点がオルラの北側からブリヤンスクを経てチェルニゴフまで。放射能汚染地域は常に、地球上に放出された放射性微粒子の強度のばらつきと、大きな尺度でみた気象条件が一様でないことに関係した《斑点のある》形態をしている。汚染地図に記入された等高線は、先ほど指示された方法により滑らかにされた。個々の小さな《斑点》はまばらで、地図上の境界領域に引かれた等高線

----- p.19 -----

画像


----- p.20 -----

画像


----- p.21 -----

に影響を与えない。
 最初に、事故の後で件られた放射能の雲は風で北西方向へ運ばれ、その後北及び北東に方向を変えた。その結果、雲の流れたカリニングラード州のプリバルティク(400mCi/ku【14,800 Bq/u】まで)で汚染の高い地域が形成された。また、レニングラード州やベローバ・モーリェ(白海)(80〜100mCi/ku【2,960〜3,700 Bq/u】まで)でも同様に汚染地域が形成された。二番目として、北の地方すなわちゴメリ、トウーラ、ペンザ、ウリャノフスク、スヴェルドロフスクは事故の核分裂生成物によって汚染された。例えば、スヴェルドロフス州では、原発事故の発生にともなうセシウム137の土壌汚染は全体で核実験起源のセシウム137の20〜50%であった。このようにウラル地方において、原発事故にともなう核分裂生成物の降下による土壌へのセシウム137の再配分の影響は小さかった。三番目として、風が南へ方向を変えたことにより、西グルジア州のその後の放射性物質による汚染レベルが決まった。5月1日に多量の雨が黒海の東岸に降り、セシウム137による明かな土壌汚染を引き起こした(500mCi/ku【18,500 Bq/u】以下)。カフカス地方は、地域への放射能の降下をカフカス山脈が障害物となって阻止するのに役にたった。そのため、東グルジア、アゼルバイジャンのセシウム137による汚染は比較的高くなった。図3からわかるように、バクー地区の土壌のセシウム137による汚染でさえ、バツウミ、スフミ地区よりも高くなっており、両地区では核実験による環境レベルに比べておよそ5倍高くなった。
 最後に、わが国のアジア地域における土壌中のセシウム137の緯度分布について述べる。最も少ない汚染レベル(40mCi/ku【1,480 Bq/u】以下)がシベリア地域で観測される。主要な山脈が横たわるわが国の南アジアの個々の地域では、原発事故にともなう汚染は核実験起源の汚染のほぼ2倍以上である。この法則性は、ソ連国内の核実験起源のセシウム137の汚染に特徴的である。原発事故が起源のセシウム137の土壌汚染への寄与は、わが国のアジア地域(外カフカス地方を除く)にお

----- p.22 -----

いて10%を越えない。しかし、基本的にははるかに小さい。

----- p.23 -----

参考文献

1. Волтнева Л.И.,Израэль Ю.А.,Ионов В.А.,Назаров И.М. ―― Глобальное загрязнение 137Cs и 90Sr и дозы внешнего облучения на территории СССР. ―― Атомная энергия,1977,т.42,вып.5,с.355-360.
2. Израэль Ю.А. и др. ―― Радиоактивное загрязнение природных сред в зоне аварии Чернобыльскй атомной электростанции. ―― Метеорология и гидрология,1987,2,C.5.
3. Израэль Ю.А. Чернобыль: прошлое и прогноз на будущее. ―― 《Правда》,20 марта 1989
4. Махонько К.П., Силантьев А.П., Шкуратова И.Г. ―― Контроль за радиоактивным загрязнением природной среды в окрестностях АЭС.―― Л.: Гидрометеоизат,1985,136 с.

----- p.24 -----

画像


----- p.25 -----

画像

 共和国内での自然ガンマ放射線によるバックグラウンド・レベルは、0.010〜0.020ミリレントゲン毎時である。
*それぞれ、同一市内の異なる地区で測定された放射線レベル。

白ロシア気象委員会に所属する放射線生態学部門の技術者であるN.コレニによって集められた情報。

----- p.26 -----

(あとがき)

 冊子006がでてから随分と時間が経ってしまいました。冊子の発行を止めてしまったのではなく、発行できなかったのは、ただ単に当会の冊子編集担当者の個人的な‘さぼり’が原因です。今回の冊子はいかがだったでしょうか。多少アンバランスなものになってしまいましたが、ご容赦願います。
 今回の冊子は、深澤洋子さんの協力で完成しました。深く感謝します。なお、内容について最終的な検討をおこない、脚注を付したのは当会です。従って、内容等に関する責任は全て当会にあります。

(1991.04.17 イワンとミ一一シャの会)

----- p.27 -----

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
放射能ゾーンの子供たち kohnoのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる