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zoom RSS (1989)「チェルノブイリ・ノート」より(その2)

<<   作成日時 : 2012/02/18 18:09   >>

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「チェルノブイリ・ノート」より(その2)

《第三章》

 原子炉が爆発した後、原子炉当直課長A.アキモフの指示で、炉制御担当主任技師の若い見習員グドリャフツェフとプロスクリャコフは崩れたものをふみわけて進み、図面上の36番の場所に近づいた。この36番の場所には原子炉室があった。上の方ではエレベーター孔にこだまして大きくなった炎の音や、消防士の叫ぶ声が聞こえた。その叫び声は機械室の屋根と、近くの炉の下部の方から届いたもののようであった。

 「あっちでも燃えているのだろうか?」と若者たちは考えた。

 図面上の36番の場所はすべて破壊されていた。壊れた構造物の間を抜けて二人は換気室の大きい部屋へ入った。この部屋は今や壊れた一枚の壁によって原子炉室ら仕切られている。中央ホールが爆発によって泡のように吹き飛ばされているのがよく見えた。そして上部が引きちぎられ、壁は曲がり、バルブはでこぼこになって突出していた。あちこちでコンクリートがくずれ、バルブ類がむき出しになっているのが見えた。二人の若者はこれまで見慣れていた場所をようやくのことで識別したが、驚きの余りしばらく呆然として立っていた。
 防毒マスクと防護衣なしで彼らはかつての原子炉室へ入った。そこは折れ曲がった鉄骨やくすぶっている破片で一杯であった。炉の方に垂れ下がっている消防ホースがあった。筒口からは水が流れ出ていた。しかし人影はなかった。消防士たちは最後の力をふりしぼり意識を失ってほんの数分前にここから退却したばかりであった。二人は惨事のまっただ中に居合わせたのである。しかし一体、原子炉はどこにあるのだ? あらゆる方向に突き出している細いステンレスパイプの切れ端のついた上部にある生体防護用の丸い板がやや傾いて炉のシャフトに横たわっていた。壊れた壁のバルブがあちこちにぶら下がっている。つまり、生体防護用の板は爆発によって吹き飛ばされ、少し傾いて再び炉の上に落ちてきたのだ。壊れた炉の孔からは赤と空色の火が吠えるように強く吹き出していた。
 プロスクリャコフとクドリャフツェフは目にしたことすべてをしっかりと頭に入れるべく炉のそばにおよそ1分間いた。これは致死量の放射線を受けるに十分な時間だったのである(二人ともモスクワの第六病院で恐ろしい苦しみの中で死去した)。
 同じ道を二人は図面上の10番の場所へ戻ったが、深くむせるような気分と心の中がパニック状態になっているのを感じた。制御室へ入ってアキモフとディヤトロフに状況を報告した。彼らの顔と腕は茶色に変わっていた(核やけ【放射線による火傷】である)。後に衛生室で、彼らの衣服の下の皮膚もこのような色になっていることがわかった。
 「中央ホールはありません。すべて爆発でなくなっています。頭上には空が見えます。炉からは火が……」とプロスクリャコフ。
 「おまえたち、しっかり見てきたのか……」とディヤトロフがゆっくりと言った。 「床で何かが燃えていたのだろう。それが炉だと思ったのだ。非常用タンクの雷酸混合物【酸素と水素の混合物】が爆発して丸屋根を吹き飛ばしたのだろう。たいしたことはない。110立方メートルはかなりの量だ。丸屋根だけでなく建物全体を吹き飛ばすほどだ。炉を守らなくてはいかん。炉は無事だ……。炉心に水を送らなければならん。」
 かくして神話が生まれたのである。炉は無事である。爆発したのは防御システムの非常用水タンクである。炉心に水を送らなければならない。
 夜2時30分、4号炉の制御室に原子力発電所長のブリュハーノフが到着した。呆然としている。
 「何が起こったのだ?」と低い声でアキモフにたずねた。アキモフは重大な放射能事故が発生したが、炉は彼の意見では大丈夫であること、機械室の火事は鎮火状態にあること、テリャトニコフ少佐の消防隊が屋根の火事を消していること、そして第2緊急給水ポンプが準備されまもなく始動することをブリュハーノフに報告した。
 「重大な放射能事故と言ったが、もし炉が無傷ならばこの原子炉での放射能の値は今いくらなのだ?」
「ここにある計器(ラジオメーター)では1秒当り1000マイクロレントゲンとなっています。」
「うん、それならたいしたことはない」と、やや安心した様子でブリュはーノフ。
「私もそう思います」とアキモフが言った。
「モスクワへ炉は無事だと報告してもよいか?」
「ええ、いいです」と自信ありげにアキモフが答えた。
 ブリュハーノフは自分の執務室へ戻り、そこから夜の3時にモスクワへ電話をかけた。相手はソ連共産党中央委員会の原子力発電部の部長、ウラジミール・ワシーリエビッチ・マリインである。
 この頃までには事故を起こした原子炉へ原子力発電所民間防衛隊のサラビョフ隊長が到着した。彼は250レントゲンの測定目盛りのついた計器を持っていた。脱気装置の棚を抜けて機械室に入り、崩れた場所を見て、彼は事態がきわめてゆゆしいものであることを理解した。いろいろな場所で250レントゲンの目盛りの計器は振り切れていたのである。サラビョフはブリュハーノフに状況を報告した。
 「君の計器は正しくないよ。そんな放射能は考えられない。自分の計器を点検するか捨てるかした方がいいのではないか……」とブリュハーノフは言った。
 「計器は正常です」とサラビョフ。
 一方、ブリュハーノフとフォーミンは電話をひっきりなしにかけていた。ブリュハーノフはモスクワと、フォーミンは4号原子炉の制御室と連絡をとった。
 モスクワの関係先は、党の中央委員会、マイオレツ大臣、発注主管組織のべレテンニコフ総裁、キエフではウクライナ発電省のスクリャロフ大臣、党のキエフ地区委員会レベンコ書記であった。数十回、いや数百回同じ文句が繰り返された。
 「炉は無事、炉心に給水中、中央ホールの制御防護系の非常用タンクが爆発し丸屋根が吹き飛ばされた。放射能は基準値の範囲内にある。ワレーリー、ホデムチンクが死亡(1名)、ウラジミール・シャシェノックは全身やけどを受け重体。」
 「放射能は基準の範囲内……」というのである。ブリュハーノフの手元には1秒当りわずか1000マイクロレントゲンの測定範囲(これは毎時3.6レントゲン)の計器しかなかった。しかし一体誰がもっと測定範囲の広い計器を十分にブリュハーノフが持つことを妨げていたのであろうか? どうして計器が金庫の中に保管されており、測定担当者の手元にあった計器が故障していたのだろう。なぜブリュハーノフは原子力発電所の民間防衛隊のサラビョフ隊長の報告を無視して、放射能状況に関する彼のデータをモスクワあるいはキエフに伝えなかったのか?  そこにはもちろん臆病さや責任を恐れる気持ちがあっただろう。そして無能であるが故にこれほど恐ろしい惨事の可能性が信じられなかったのであろう。たしかに、彼にとってのできごとは理解の範囲を越えていたのだ。しかしこれは単なる説明であって彼の行動を正当化するものではない。
 モスクワからはブリュハーノフに対して、政府委員会が設置されたことが伝えられ、専門家からなる最初のグループがモスクワを朝9時に飛び立つということが伝えられた。
 「しっかりしろ! 炉を冷却せよ。」
 フォーミンはときどき落ち着きを失った。混迷状態になったかと思うと、急にけいれんをしたような状態になった。彼はアキモフとディヤトロフに命じて、炉に絶えず給水させ4号原子炉に新たな人員を投入していた。ディヤトロフが衛生室へつれていかれた時、フォーミンは第一期設備【1、2号炉】の運転担当技師長代理のアナトーリイ・アンドレビッチ・シトニコフを自宅から呼び出して、こう言った。「君はベテラン物理学者だ。炉がどういう状態にあるのか調べてくれ。君はよその職場の人間だから、嘘を言ったりはしないだろう。頼むよ。原子炉‘B’の屋根に登って上から見おろす方がいいだろう。」
 シトニコフは死に向かって歩き出した。彼は原子炉をすべて見て回り、中央ホールへも立ち寄った。そしてそこで炉が破壊されていることを悟った。しかし目でみて確認するために、原子炉‘B’にある特殊化学塔の屋根に登って高いところから炉を見おろした。想像もできないような破壊の状況が彼の視界に広がった。彼は1500レントゲン以上の放射線を浴びた。中枢神経が放射線による障害を受けた。モスクワの病院では彼には骨髄は注入されなかった。それ以外のあらゆる治療がこころみられたが、彼は死んだ。
 朝10時、シトニコフはフォーミンとブリュハーノフに、炉は破壊されていると思うと報告した。しかしアナトーリイ・アンドレビッチ・シトニコフの報告はいらいらを引き起こしただけで伝達されなかった。炉への注水は続いていた。
 リュドミーラ・アレクサンドロブナ・ハリトーノワ(チェルノブイリ原子力発電所建設管理部生産運営課の女性主任技師)は証言する。
 「1986年4月26日の土曜日、みんながもう5月1日【メーデー】の準備をしていました。暖かいよい天気の日でした。春、庭に花が咲いています。換気設備係長の夫は子供と別荘へ出かけようとしていました。私は朝から洗濯をして下着をベランダに干していました。ほとんどの建設関係者はまだ何も知りませんでした。その後、第4号原子炉で事故と火事があったという話が伝わりました。しかし一体何が起きたのか、詳しいことは誰も知りませんでした。子供たちは学校へ行き、幼児たちは砂場で遊んだり、三輪車に乗ったりしていました。近くの通りで揚げパイを売っていたので買いに行きました。普段と変わらぬ休日でした。建設労働者は作業に出かけました。しかしまもなく彼らは12時頃には帰宅させられました。私の夫も仕事に出かけましたがすぐ戻ってきました。
事故で、中へ入れてくれない。発電所は封鎖されている。
私たちは別荘へ行くことにしました。しかし警察の検問所が郊外に出ることを許可しませんでした。それで家へ帰りました。不思議なことに、我々はまだその事故を自分たちの生活とはかけ離れたものとして受け取っていたのです。以前にも事故はあったからです。でも、それらの事故は発電所の中だけでのことでした。昼食後、町の洗浄が始められました。しかしそれも余り注意をひきませんでした。暑い夏の日にはよくあることでしたから。夏には洗浄車は珍しくはありません。いつもののどかな状況でした。側溝に白い泡があるのに気がつきましたが、それでも大したことではないと思っていました。水の勢いが強いからだと思いました。近所の幼児たちが自転車に乗って橋の方へ行きました。そこからはヤノフ駅側にある事故を起こした原子炉がよく見えたのです。これは後になってわかったことですが、そこは放射性雲が通ったため町の中では最も放射能の強い場所だったのです。しかしそれは後になってからわかったことで、4月26日の朝には、子供たちにとっては燃えているのを見るのが面白かっただけなのです。昼食後私たちの子供は帰宅しました。学校で、外へ出ないように、また家を濡れた雑巾で拭くようにとの注意があったそうです。そこではじめて事態が深刻だということがわかりました。事故についてはいろいろな人がそれぞれの時間に知りました。しかし4月28日の夕方までにはほとんどの人が知っていました。それでも反応は落ち着いたものでした。店も学校も事務所も開いていたからです。つまり我々はそれほど危ないことはないと考えていました。夕方になる頃、状況は緊迫してきました。この不安はどこかわからぬところからやってきました。心の中からも、空気からも感じられたのです。空気には金属的な臭いが強く感じられるようになりました。それがどういうものか正確には言えませんが、金臭い(かなくだい)のです。」
 〈南部原子力発電所施工連合〉の設備部長をしていたゲンナージー・ニコラエビッチ・ペトロフは次のように語っている。
 「4月26日の朝10時頃目がさめました。床には暖かい日の光、窓には青い空。よい天気で気持ちがよく、家で休んでいました。ベランダへ出て一服吸いました。外には子供たちがたくさん遊んでいました。昼食の頃には気分がうきうきしてきました。空気の中に金属のようなものが感じられ、口の中の歯のまわりが酸っぱい感じでした。隣に住んでいる電気工のミハイル・ワシーリエビッチ・メテレフは11時頃屋根に登って水泳パンツで日光浴を始めました。その後一度おりてきて水を飲み、今日はすばらしく日焼けすると言いました。これまでにないくらいだというわけです。皮膚が少し焦げたくらいの臭いがするといいました。そしてはしゃいでいるのです。私にもくるようにと言いましたが、私は出ませんでした。これなら水泳場へ行くことはないと言いました。そして青い空をバックにして炉が燃えているのがよく見えるといいました。
 夕方になってから、屋根で日光浴をした隣人は強い嘔吐をおこし、病院へ運ばれました。その後おそらくモスクワか、キエフへ運ばれたことでしょう。はっきりとはわかりません。しかしこれは別なこととして受け取られました。夏のような一日、太陽、青い空、暖かい日差し。よくあることです。誰かが病気になり、救急車が誰かを運んで行くというのは。すべていつものような一日だったのです。」
 再びL.A.ハリトーノワが証言する。
 「4月26日の午後、一部の人、特に学校の子供たちには外へ出ないようにとの注意が出されました。しかしほとんどの人がこれを気にしませんでした。夕方近くになってこの注意が本当のものだということがわかってきました。人々が行き交い、心配そうに話し合っていました。多くの人、ことに男性はアルコール類を持ち帰りました。他に何もなかったのでこれで《除染しよう》というわけです。女性の中にも負けていない人がいました。多くの男女が陽気に騒いでいました。プリピヤチの町は賑やかになり、人があふれ、何か大きなカーニバルの準備をしているかのような有様でした。もちろん、すぐ間近にはメーデーが控えていましたが、はしゃぎ過ぎが目につきました。」

 その頃、モスクワでは政府委員会のメンバーがブイコボ飛行場から飛び立とうとしていた。出発したのは次の人達である。
 検事総長主任補佐 Y.N.シャドリン
 ソ連発電・電化省 A.I.マイオレツ
 ソ連共産党中央委員会原子力発電部長 V.V.マリイン
 発電省次官 A.N.セミョーノフ
 中型機械工業省第一次官 A.G.メシュコフ
 全ソ原子力発電所建設局局長 M.S.ツビルコ
 全ソ原子力発電所施工局次長 V.A.シェベルキン
 副首相 B.E.シチェルビーナ付き秘書官 L.P.ドラチ
 ソ連保健省次官 E.I.バラビョフ
 ソ連保健省代表 V.D.トウロフスキー
 その他

 YAK-40の客席ではそれぞれが赤いソファーに向かい合って座っていた。マリインは委員会のメンバーと意見を交換していた。
 「大事なことは、原子炉が持ちこたえたということだ。ドレジャリ【黒鉛炉の開発者】万歳! ありがたいことだ。ブリュハーノフは夜中の3時に電話をかけてこう言った。ひどい事故だが、炉は無事であり冷却水を連続的に注入していると。」
 マイオレツが会話に加わった。
「ウラジミール・ワシーリェビッチ(マリイン)、我々はプリピャチに長居をしなくてもすみそうですな。」
 マイオレツは、キエフの空港ジュリャナからプリピャチへ向かう飛行機AN-2の中で一時間後にこれと同じことを繰り返して言った。キエフからは政府委員会のメンバーの他に、ウクライナ発電省のV.F.スクリャロフ大臣も加わっていたが、彼は反論した。
 「いや、2日ではとてもすまないだろう。」
 「スクリャロフ同志、私たちを脅さないでくれよ。我々の、ということはウクライナの諸君の主要任務ということにもなるが、とにかくできるだけ短い期間に壊れた原子炉を復旧しそれを送電網につなぐことだ。」
 ちょうどその頃、ソ連閣僚会議副議長で副首相のB.E.シチェルビーナはバルナウールからモスクワへの機中にあった。モスクワへ着いたらただちにブヌコボ空港からキエフへ飛び立つことになっていた。副議長がプリピャチへ到着するのは夜9時頃の予定であった。
 マリイン・ウラジミール・ワシーリェピッチはその経歴からいえば発電所の建設技師であった。長い間、ボロネジの建設施工部門に勤務し、ノボボロネジ原子力発電所の建設に参加した。1969年にソ連共産党中央委員会の重工業エネルギー部門のエネルギー関係の指導者に栄転した。私は彼をよく見かけたが、それは発電省の幹部会とか、党の会合、いろいろな組織の原子力発電関係者の仕事を評価審査するような席においてであった。マリインは原子力施設の建設本部の仕事に進んで参加しており、すべての原子力発電所の建設本部の幹部と親しかった。そのためソ連発電省の頭越しに建設用の設備、資材、機器、労働力を効果的に配分するのに直接協力していた。個人的には、大柄で赤毛の、低い声を出し、極度の近視のこの人物は私には正直で考え方が明快という点で気に入っていた。勤勉で、よく動き、いつも自分の資質を向上させようとしていた技師である。しかし、マリインはまず建設の専門家であって、原子力発電所の運転についてはよく知らなかった。1970年代の終わりには、私は全ソ原子力発電の部長として働いていたが、党の中央委員会へはよく出かけた。そしてマリインのところへもよく立ち寄った。マリインはその頃党の中で原子力発電を担当する唯一人の専門家だったからである。話を済ませると彼はいつものように本題からそれて、仕事が多すぎるとこぼすのであった。
 「君のところには10人のスタッフがいるが、私には国全体の原子力発電がのしかかっているのだ。」
 そして彼はこう頼んだ。
「もっと私に協力して欲しい。いろいろな文献や情報をどんどんまわしてくれ……。」
 1980年代の初めに党の中央委員会に原子力発電部がつくられ、マリインはその部長となった。ようやく彼にも部下ができたのである。部下の一人となったのがG.A.シャシャーリンである。彼は長年にわたって原子力発電所の運転にたずさわってきた、経験豊かな原子力発電所の専門家である。やがて彼は原子力発電所の運転担当の発電省次官となる。
 ソ連発電省〈全ソ電気施工連合〉次長、ウラジミール・ニコラーエビッチ・シシーキンは次のように語っている。彼は1986年4月26日、ソ連共産党プリピャチ市党委員会の会合に参加したメンバーの一人である。
 「全員が党の市委員会第一書記A.S.ガマニュークの部屋に集合した。まずG.A.シャシャーリンが報告をおこなった。彼は、炉が破壊されていることに気づいており、地上に黒鉛や燃料の破片を見たが、それを正直に言うには力が足りなかった。ともかくこんなにすぐ報告とは。心の中はこの恐ろしい、全く破局的な現実をすんなりと認めることを要求しているのだが。
 シャシャーリンは次のように報告した。
 「共同作業による評価が必要です。第4号原子炉は停電になりました。変圧器はショートから守るためにスイッチを切ってあります。すべてのケーブル棚には注水してあります。地下の配電装置が冠水したため700メートルの電力ケーブルを探し待機するよう電気施工関係者に指示が出されました。」
 「一体どういう設計になっているんだ!?」とマイオレツが怒る。「設計で電力ケーブルの切断がどうして考えられていないのか?」
 「アナトーリー・イワノビッチ(マイオレツ)、私は事実を話しているのです。なぜかという質問は次の問題です。ともかく、ケーブルを探しており、炉に水が送られており、電線の切断がおこなわれております。第4号原子炉のまわり全体に高い放射能があるようです。」
 「アナトーリー・イワノビッチ!」とマリインが低い声でシャシャーリンをさえぎった。「我々は、ついさっきゲンナージー・アレクサンドロビッチ(シャシャーリン)と共に第4号原子炉のそばに行ってきたところです。ひどい有様です。なんとも恐ろしいことです。焦げる臭い。当り一面に黒鉛が散乱しています。私は本物かどうか確かめるために足で黒鉛のかけらを蹴ってみました。この黒鉛は一体どこからやってきたのでしよう。あれほど多くの黒鉛が!?」
 「ブリュハーノフ!」と大臣は原子力発電所長に向き直った。「君は放射能状況は正常と報告したが、この黒鉛は一体どういうことだ?」
 「考えにくいことですが……。我々が建設中の第5号原子炉のために入手した黒鉛はそのままの場所にあります。私は当初この黒鉛かと考えましたが、それはもとのままです。そうすると炉から出たものかも知れません……。ほんの一部が。しかしそうだとすれば……。」
 シャシャーリンが説明した。
「正確に黒鉛の放射能を測定することはできませんでした。バックが非常に高いからだと思われます。ラジオメーターが一台ありましたが、瓦れきの下に埋まってしまいました。」
 「何ということだ! どうして発電所に必要な計器がないのだ?」
 「設計外の事故が発生したのです。我々は民間防衛隊とわが国の化学部隊に救援を要請しました。まもなく到着するはずです。」

 おそらく、この惨事の全ての責任者は一つのことを望んでいたことだろう。すなわち事態を認める瞬間を先へ延ばしたいということである。チェルノブイリ以前にはごく普通におこなってきたように、責任と罪が目だたない形で全ての人に少しづつ分散していくのを望んだのである。まさにこの責任分散のために、引き延ばしがおこなわれ、1分1分が貴重で、少しでも遅れると何の罪もない町の住民が被曝するおそれがあるというこの大切な時に時間が空費されたのである。しかも全ての人の頭骨の箱の中では《避難》という単語が浮かんでいたというその時にである……。
 ガマニュークはマイオレツに対して次のように報告した。事故を起こした原子炉における事態は複雑で重大であるが、プリピャチの状況はいつもと変わりなく平静です。=iガマニュークは事故の時衛生室で検診を受けていたが、4月26日朝、ベッドを抜け出して仕事に出てきていた)
「パニックも混乱も起きていません。いつもの休日の普通の生活です。子供たちは外で遊び、スポーツ行事もおこなわれています。学校の授業もいつもの通りで、結婚式すらおこなわれています。今日は16組の若者の結婚式がおこなわれたばかりです。流言飛語が広がらないようにします。事故を起こした原子炉では被害が出ています。運転員ワレーリー・ホデムテュクとウラジミール・シャシェノックの二人が死亡しました。12名が衛生室へ運ばれましたが重体です。それより被害の少ない40人が後に入院しました。被害者は増えつつあります。」

 「内務省少将、ウクライナ内務省次官ゲンナージー・イワノビッチ(マイオレツ)」とベルドフ将軍は報告した。
「5時に私は事故炉の地域にいました。民警部隊が消防隊の後を引き継ぎました。民警部隊は原子力発電所と林へ通ずる道をすべて遮断しました。特に冷却池の貯水池の釣り場への道は厳重にしました。」(ここで特記しておかなければならないことは、ベルドフ将軍が危険を察知していたものの、実際にどうなのかを知らなかったという点である。このため彼の部下の民警隊員は線量計や防護服を持たず、全員が過度に被曝した。しかし彼らは直感的に正しく動いた。危険と思われる場所へ近づいた時間を大幅に少なくしたのである。 ――― 筆者)
 プリビヤチの民警支所には作戦本部が設置され活動していた。ポレスコエ、イワンコフスク、チェルノブイリ支所からも隊員が派遣された。朝7時までに、事故地域には1000人以上の民警隊員が到着していた。ヤノフ鉄道駅では輸送民警部隊が増強された。ここには、事故の直前に重要な設備を積んだ貨車が止まっていたからである。旅客列車や機関車が入ってきたが、乗客は事故について何も知らされなかった。今は夏で、列車の窓は開いている。鉄道は事故炉から500メートルのところを走っている。列車の運行を止めなければならない。(ベルドフ将軍は集まった人達の中では真っ先に事態を正しく評価したということを付記しておかなければならない ――― 筆者)
 警備には軍曹や曹長だけでなく、民警大佐も立った。私自身、危険地帯の警備用詰所を点検している。勤務を拒否したものは一人もいない。キエフの交通部門についても多くのことがおこなわれた。住民の避難を想定して1100台のバスがチェルノブイリヘ向い政府委員会の指示を待っている……。
 「なぜ、私に対して避難のことばかり話すのか?」
と大臣がたまりかねて叫んだ。
「パニックを引き起こそうというのか? 炉を停止させてすべての動きを止めねばならん。放射能も基準値内におさまるだろう。ところで炉はどうなのかね。同志シャシャーリン?」
 「フォーミンとブリュハーノフの報告によれば運転員は第5種緊急防護ボタンを押して炉を止めました。」(シャシャーリンはヘリコプターから破壊状況をまだ見ていなかったから、こう言ったのはもっともである ――― 筆者)
 「運転員はどこにいるのだ? 彼らをここに呼べないのか?」
と大臣は言い張った。
 「運転員は衛生室です。アナトーリー・イワノビッチ…… 彼らは非常に重体です。」
 ブリュハーノフが低い声で語った。
「私は朝早く避難してはどうかと提案しました。モスクワへ尋ねたのです。しかしシチェルビーナ副首相が到着するまではそういうことは一切してはならぬという指示がありました。そしてパニックを引き起こさぬようにとのことでした。」
 「民間防衛隊の考えはどうなんだ?」
 サラビコフが立ち上がった。爆発の2時間後に250レントゲンの目盛りのある唯一のラジオメーターを使って放射能の危険度を判定したあの原子力発電所民間防衛隊長である。(ブリュハーノフの反応は読者にはおわかりであろう。もう一つ付け加えておきたいことがある。サラビヨフはウクライナの民間防衛隊に対して夜のうちに緊急信号を二度送ったのである。これは賞賛に値することであった ――― 筆者)
 「250レントゲン、つまりメーターが振り切れた値ですが、この範囲にあるのは機械室・中央ホール・原子炉の内部とその周りの場所と崩れた部分です。ただちに避難すべきです。アナトーリー・イワノビッチ。」
 ソ連保健省代表のトウロフスキーが立ち上がった。
 「避難が必要です。衛生室で見たものは、つまり患者を見たところ、彼らは重体です。さしあたって表面的な評価ですが、線量は致死量の3〜5倍でしょう。発電所から遠くまで放射能が拡散したことは疑いないでしょう。」
 「もし間違っていたらどうするかね?」
と不快感を抑えながらマイオレツがたずねた。
「とにかく状況を調べてなんとかしよう。」

 く南部原子力発電所施工連合〉のプリピャチ管理局設備部長だったG.N.ペトロフの証言。
 「4月27日14時きっかりに各アパートにバスがまわされた。ラジオで再度注意があった。軽装でできるだけ荷物は少なくすること、3日たてば戻れるだろう。私は思わず、皆が多くの荷物を持てば1000台のバスでは足りないだろうと考えた。ほとんどの人がすなおに言われた通りに動き、余分のお金すら持たなかった。とにかく我々は善良な人間なのだ。冗談を言ったり、励まし合ったりしていた。そして子供にも言い聞かせていた。おばあちゃんの所へ行くんだよ、映画へ、サーカスへといった具合いだった。しかし大人も子供も青ざめ、悲しそうに黙り込んでいた。辺りには放射能によってつくられた空元気と警戒感がたれこめていた。それでもすべてがテキパキと進んだ。多くの人が早めに降りて外に子供たちと一緒に集まっていた。外ではなく建物の中に入っているように注意された。乗車の合図で中から外へ出てすぐさまバスに乗り込んだ。
 プリピャチから80キロメートル離れたイワンコフヘ連れていかれて、そこであちこちの村へ分けられた。必ずしも全ての人が気持ちよく迎え入れてくれたわけではない。ある大農家ではその大きなレンガ建ての家に私の家族を入れようとしなかったのであった。(放射能のことは農夫にはよくわからず、それを説明しても何の役にもたたなかった。)他人を入れるためにこの家を建てたのではないと彼は言った。
 イワンコフで下ろされた人々の多くは、さらにキエフ方面へ歩き出した。私の友人でヘリコプターの操縦士をしている男が後に語ったところによれば、普段着の人々の群れがキエフの方向へ道一杯に歩いて行くのが空から見えたという。子供を連れた女性や老人たちの長い列。それはイルペニやブロワーロフ地区で見られた。この群れの中では車も動けなかった。人々は歩き続けた……。」
 原子力発電所の近くの村の住民も避難させられた。〈南部原子力発電所施工連合・トラスト〉の技師長アナトーリー・イワノビッチ・ザーヤツは部下と共に村々を回って、家を捨てなければならないと住民に説明した。国家はあなた方に穴埋めをするだろうし、十分な償いをするだろう。何の心配もいらない。しかし住民は理解することを欲しなかった。
「どうしてかね? お日さんは照っているし、草は緑だ。花も咲いている。それなのにどうして家を出なけりやならんのかね?」
 多くの住民は、牛に草を食べさせてはならないと聞いて、牛や羊や山羊を小屋の中へ入れた。これもほんのしばらくの間と考えたのである。2・3日もすればまた草を食べさせることができるだろう……。しかし、家畜は射殺され、住民は安全な場所へ移されることになった。


《第四章》

 チェルノブイリへ到着してから私はすぐに、チェルノブイリ原子力発電所の建設本部長のV.T.キジムのところへ向かった。キジムの部屋から数人が出て行った。皆興奮していた。キジムは一人残って、マンゴジュースの缶をあけていた。頬には防毒マスクの紐のあとが残っている。
 「やあ、ワシーリー・トロフィーモビッチ!」
 「やあ、モスクワさん。」
 余りうれしそうな様子を見せずにキジムは答えた。
 「ビタミンがつまっているぞ。放射能には役に立つんだ。」
 と言ってマンゴジュースをごくごくと飲んでいる。電話がなる。キジムは受話器をつかむ。
 「ええ、キジムです。はいそうです。アナトーリー・イワノビッチ、」
 「大臣だよ」
 と彼は受話器を手でおさえながら小声で私に言った。
 「紙と鉛筆ですか? あります。45度の角度の斜緒を引くのですか。そして次に垂直な線。はい今度は水平な線ですね。描きました。直角三角形ができました。それでいいですか?」
 彼はしばらく話してから受話器を置いた。
 「この通り、現場の作業主任と同じ様な仕事をしているんだ。マイオレツ大臣は古参主任で、ソ連閣僚会議の副議長シラーエフ同志はさしずめ建設主任といったところだな。ほら今の電話で図も描くように伝えてきたところだ。三角形をだよ!」
 キジムは私に紙切れを渡した。
 「炉の周りは瓦れきの山だよ。これにセメント溶液をかけるといっているんだ。まるで小学校一年生の坊やみたいにおれが何も知らないとでも思っているんじゃないかな。おれは、この瓦れきの山のところは4月26日の朝歩いて見てきたよ。その後も、何回か行ってきた。さっきも見てきたばかりだ。ところが大臣ときたら、三角形を描けというわけさ。おれは言われる通りにしたよ。だけどその先どうすればいいのだ。正直言って、おれには大臣や次官は必要ないよ。ここは建設現場だよ。放射能の危険があっても大事な現場なんだよ。そしておれはその現場の責任者なんだ。おれには科学コンサルタントだけで沢山だ。非常事態や秩序のことは軍人がやってくれればいい。そして人間もだ。ここの連中は散り散りになってしまったよ。現場の作業員のことさ。本部もだ。書類も退職金の3000ルーブル【約63万円】以上も貰わないでいってしまったよ。放射線測定器は25人に1台の割だ。それも使いものにならないやつだ。それでも奇跡的に動いているんだ。みんながこの計器をたよりにしている。これなしでは放射能のあるところへは行けないよ。君の所には計器があるんだろう。それをこちらへよこしてくれよ。それがあればあと25人が仕事に出られるんだ。」

 「プリピャチから戻ったら、やるよ。」と私はキジムに約束した。
 プリピャチへまわった折り、破損した発電用原子炉を見たが、兵士や将校たちが燃料や黒鉛を手で集めていた。バケツを手にして集めていた。そしてコンテナーの中へ移し変えていた。黒鉛は我々の乗ってきた車の側の垣の向こうにもころがっていた。私はドアを開けて、サーぺ−・メーターを黒鉛の塊に近づけてみた。毎時2000レントゲンだ。ドアを閉じた。オゾンの臭いがした。こげ臭く、ほこりっぽく、その他いろいろな臭いがする。これはあるいは焦げた人肉の臭いかも知れない。兵隊たちは一杯になったバケツを持ってゆっくりと金属のコンテナーに向いバケツの中身をその中へ移したように私には見えた。
 何とかわいそうな!
 と私は思った。
 君達はなんと恐ろしいものを集めているのだ。過去20年間の成果がこれなのか?
 ロボット技術やマニピュレーターを開発するために国家が支出した数百万ルーブル【数億円】のお金は一体どこへ消えてしまったのか? それとも風に吹き飛ばされたのか?
 兵士の顔も将校の顔も黒味がかった茶色になっている。核焼け【放射線による火傷】だ。天気予報は大雨が降るだろうと言っている。放射能が雨によって地中へ入り込まないように、ロボットの代わりに人間が働いているのだ。ロボットはないのか?
 後にこのことを知ったアカデミー会員アレクサンドロフは立腹してこう言った。
 「チェルノブイリでは人間を何とも思っていない。しかしこれはいずれ私の責任とされるだろう……。」
 しかし彼らはウクライナに爆発の危険性のあるRBMK炉が建設されるとき、少
しも腰を立てなかったのである。

 第4号原子炉のシフト主任V.G.スマーギンの証言
 「モスクワではシチューキンスカヤ通りにある第6病院に入れられ、最初は4階、のちに6階へ移されました。もっと重症の消防士や運転員たちは8階に収容されました。その中には、消防士のワシチュク、イグナチェンコ、プラビク、キベノク、チチェノク、チシューラ、運転員のアキモフ、トプトウノフ、ペレボスチェンコ、ブラジュニク、プロスクリヤコフ、グドリャフツェフ、ペルチュク、ベルシーニン、グルグス、ノビク、…… がいました。一人づつ滅菌テントの中に横たわっていました。このテントは一日に数回石英ランプの照射を受けました。石英ランプは火傷をしないよう天井へ向けられていました。プリビヤチの衛生室で我々の静脈に注射された生理液は多くの病人を元気づける作用をしました。そして被曝による中毒症状を除いてくれました。線量が400ラドまでの病人は幾らか良好な状態でした。その他の病人はほんの少し軽症でしたが、炎と水蒸気に焼かれ照射を受けた皮膚のひどい痛みに苦しんでいました。皮膚と身体の中の痛みが病人を衰弱させ、死なせたのです。
 最初の2日、つまり4月28日・29日、サーシャ・アキモフは我々のテントベッドへやってきました。放射能による火傷で黒ずんだ茶色い顔色をして沈んだ感じでした。いつも同じことを繰り返しました。なぜ爆発が起きたのかわからないというのです。すべて順調に進んでいて、緊急防護ボタンを押すまではそのパラメーターも異常なかったからです。身体の痛みよりも、そのことの方がもっと私にはつらいのだ≠ニ彼は4月29日に私に言って出て行きましたが、それが最後の言葉となりました。
 私はプロスクリャコフが死ぬ2日前に彼のところへ行きました。彼は傾斜したベッドに寝ていました。口はびっくりするほど膨れ上がっていました。顔に皮膚はありませんでした。むき出しだったのです。胸はばんそうこうだらけでした。彼の上には加温ランプがありました。喉が乾くといつも言っていました。私はマンゴジュースを持っていました。ジュースを飲むかとたずねたら、とても飲みたいと返事しました。ミネラルウオーターにはあきたというのです。彼の枕元にはボルジョミ【コーカサスのミネラルウオーター】のビンがありました。私はコップにジュースをついで彼に飲ませました。ジュースの缶を枕元に残して、看護婦にまた飲ませてやってくれるように頼みました。モスクワには彼の親族はいませんでした。それにどうしたわけか誰も彼を見舞いにこなかったのです。
 もうだいぶんよくなったと思われていた人々の多くが突然死んでいきました。35日目にこうして第一期設備の運転担当技師長代理のアナトーリー・シトニコフが急に亡くなりました。彼には2回骨髄が注入されましたが、不適合でした。拒否反応を起こしたのです。
 第6病院の喫煙室には快方に向かっている患者が毎日集まりました。そのすべての患者を悩ませたのは、どうして爆発したのかという一つのことでした。皆で考えて、思いをめぐらせていました……。」

 生産連合〈原子力発電修理〉の次長A.M.ボダコフスキーの証言
 「私は、ソ連発電省の依頼により、チェルノブイリの放射能で死んだ人達の埋葬を指揮もました。1986年7月10日の時点で28名を埋葬しました。多くの遺体が強い放射能を帯びていました。私自身も埋葬作業員もはじめのうちこのことを知りませんでした。後に偶然測定してみたところ高い放射能が検出されました。それで埋葬作業の際には鉛の塩化物を染み込ませた衣服を着用することになりました。衛生病理ステーションは遺体に放射能があると知って墓の下にコンクリートの台を作るように要求しました。原子炉の下にあるようなあの台です。遺体からの放射能を帯びた液体が地下水に入らないようにするためです。長い間衛生部門と論争しましたが、放射能の強い遺体は亜鉛の棺にいれてハンダづけにすることで解決しました。
 第6病院では、事故から60日後の1986年7月現在、なお19人が治療を受けています。ある患者の場合、その他の具合いは悪くないのに60日後に急に身体に火傷のまだらが出ました。私の場合のようにです。」
 ホダコフスキーはシャツをまくり上げて腹部の黒味がかった茶色の斑点を見せました。
 「これも放射能を帯びた遺体を扱ったためにできた火傷の斑点です……。」

 X.G.スマーギンの証言
 「第6病院ではチェルノブイリ原子力発電所の技師長ニコライ・マクシモビッチ・フォーミンも治療を受けていました。1ヶ月くらいいました。彼が逮捕される少し前に退院した折に、カフェーで彼と食事をしました。彼の顔色は青く、意気消沈していました。彼は私にこうたずねました。
 ビーチャ、お前どう思う、私はどうしたらよいのだろう。首をつればよいのだろうか?
 どうしてそんなことを、マクシーミチ≠ニ私は言いました。元気を出してとことん頑張ってください。
 ディヤトロフとはある時病院で一緒でした。退院する前に彼はこう言いました。
 私は裁かれることになる。それははっきりしている。しかしもし私に発言が許されるなら、そして聞いてもらえるなら、私は全てを正しくおこなったと言うだろう。=v

 私はブリュハーノフが逮捕される少し前に彼に会った。彼はこう言った。
 「私はもう誰にも用はないのだ。逮捕を待つだけだよ。検事総長のところへいって、どこで何をしたらいいか聞いてきた。」
 「検事はどう言いましたか?」
 「しばらく待ちなさい。やがて呼び出しがあるはずだということだった。」
 ブリュハーノフ、ディヤトロフ、フォーミンが逮捕されたのは1988年8月であった。ブリュハーノフは落ち着いていた。独房へは英語の勉強をするための教科書を持っていった。そして私はいま、死刑を宣告されたフルンゼ【ロシア革命の功労者】のようだと言った。ディヤトロフも落ち着いて自制していた。フォーミンは自制を失いヒステリー気味であった。独房で自殺を計ろうとした。メガネを割ってそのガラスで静脈を切ったのだった。しかし早めに発見され命をとりとめた。1987年3月24日に裁判が予定されていたが、フォーミンの責任能力欠如のため延期された。

 第4号原子炉のタービン課の副長ラージム・イリガモビッチ・ダブレトベーエフを訪ねあてて会うことができた。事故の時、彼は第4号炉の制御室にいた。そして300レントゲンを浴びた。病人の様子であった。放射線による肝炎で苦しんでいた。顔はひどくはれていて、目が充血していた。健康体ではなかったが、若者らしく振舞おうとしていた。背を伸ばしてきりっとしていた。身体が不自由なのにもかかわらず働いている立派な男である。
 あの1988年4月26日の夜、どういう状況だったかについて話して欲しいと彼に頼んだ。
 彼は次のように話してくれた。
 「私は技術や装置のことについて話すことを禁じられている。第1部を通じてしか話せない。」
 私は、
 「機械や技術についてはむしろ君よりよく知っているから」
 と彼に言った。
 「人々の動きについて知りたいのだ。」
 しかしラージムは控え目だった。
 「機械室に消防士が入ってきたときには、そこでの仕事は運転員がすべて済ませていました。緊急作業の間、私は機械室にいて何度か制御室に走りました。そして主任に報告しました。アキモフは落ち着いていて、手際よく指示を出していました。事故が発生したとき、我々は冷静でした。我々は仕事柄こういうことに対して心構えができていました。さすがにあれほどの規模は予期していませんでしたが。それでも我々は……。」
 どうも、ダブレトバーエフは第1部が許可した範囲内で説明しようと努めているようだった。私は口をはさまぬことにしよう。自分の当直主任のアレクサンドル・アキモフについてはこう語った。
 「アキモフはとてもきちんとして善良な人でした。人に好かれ、話好きでした。プリピャチの党市委員会のメンバーでした。いい人だった……。」
 ブリュハーノフについては話さなかった。
 「ブリュハーノフは知りません。」
 彼はチェルノブイリからのルポを載せている新聞についての意見を次のように語っている。
 「マスコミは我々運転関係者を馬鹿あるいはほとんど悪者扱いにしている。このため、我々の仲間が葬られているミチノ墓地でもマスコミの影響で、墓に飾ってあった写真がはぎ取られてしまった。まだ若いトプトゥーノフの写真だけはさすがにはぎ取れなかったようだ。まだ慣れていなかった作業員と思ったのだろう。しかし我々は悪者とみられている。ところが、チェルノブイリ原子力発電所は過去10年間電気を作ってきた。これは大変な仕事だった。みんな我々が頑張ってきたのだ……。」
 「君はいつ原子炉を離れたのか?」
 と私がたずねた。
 「朝の5時です。ひどい吐き気がしました。しかし我々はそれまでにすべてのことをやり終えました。機械室の中の火災を消し、発電機から水素を抜き取りました。そしてタービンのオイルタンクからオイルを抜いて水を入れました。我々はただ言われたことだけをやったのではありません。我々は多くのことを考えました。しかし列車は出てしまっていたのです。それを止めることはもう不可能でした。それでも我々は単なる作業をしただけではありません……。」
 その通り。ダブレトバーエフの指摘は多くの点で同意できる。原子力関係の運転員は単なる作業員ではないのだ。原子力発電所の運転では運転員は多くの責任ある決定を自主的におこなわなければならないことがある。それは原子炉を救うためにしばしばきわめてリスクを背負うような判断を含むことになる。そして緊急事態を切り抜けたり、異常状態から炉を正常に戻すことに関わっているのである。ありとあらゆる条件変化や異常の組合せの多様性に対して、残念なことにどんな指示や規則も予見してはいない。そこでは運転関係者の経験と専門家としての意識が重要なのである。ダブレトバーエフが事故の後、運転員たちが恐れることなく勇敢に働いたといっているのは正しくその点をついている。彼らの行動には頭の下がる思いがする。しかしそれはすべて事故が起きてからのことだった……。

 チェルノブイリ惨事の1周年に私はミチノ墓地へ行き、犠牲となった消防士とオペレーターたちの供養をした。モスクワの地下鉄のプラネールナヤ駅から741番のバスで20分、ミチノ村のはずれに広い死者の町があった。
 墓は新しくきれいであった。地平線に連なっているような感じである。一人一人の墓の前にしばらくたたずみながら墓地の中を歩く。墓前に花を飾った。消防士と6名のオペレーターは1986年5月11日から17日にかけて苦しみ抜いて死んでいった。彼らはきわめて多くの線量を浴び、体内にも放射性核種が入り込んだ。そのため既に述べたように、彼らの身体は強い放射能を帯びており、はんだづけの亜鉛の棺に入れて埋葬されたのである。このことを要求したのは衛生病理ステーションであったが、私はそれを残念に思った。土が死者の身体を土にかえすという最後の仕事を妨げたからである! この土の中、人間発祥の場所においてさえ、1000年の伝統が破壊されつつある。人を弔うのに人間らしく土に委ねることができないとは! しかしそうなっているのだ。
 それでもなお、私は彼らに語ろう。御霊よ、安らかれと。安らかに眠ってください。あなたたちの死は人々を揺り動かした。人々は少なくとも冬眠からほんの少し目覚め、盲目で灰色の仕事ぶりから一歩動くことになったのだ。
 チェルノブイリの受難者であり英雄である彼らの前に頭を垂れよう。
 ところで、一体最も大切な教訓は何なのか? 最も肝心なことは、これが人間生活の不安定さと弱さを感じさせるものだということである。チェルノブイリは人間の能力と無力をはっきりとした形で示した。そして次のように警告したのだ。
 人間よ、自分たちの全能に酔いしれるなかれ、全能をもてあそぶなかれ。何となれば、汝は原因であり、しかも汝は結果でもあるのだから。
 結局、このことが何よりも我々を苦しめている。あの放射能で切断された染色体の糸。放射線によって殺されあるいは不具となった遺伝子。それらはもう将来へと進んだのである。将来へ、将来へと踏み出してしまったのである。

「チェルノブイリ・ノート」より(その1)は( http://kohno.at.webry.info/201202/article_34.html

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(1989)「チェルノブイリ・ノート」より(その2) kohnoのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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