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zoom RSS (1989)「チェルノブイリ・ノート」より(その1)

<<   作成日時 : 2012/02/18 18:01   >>

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「チェルノブイリ・ノート」より
――無資格――


G.メドベージェフ(Г.Медведев)


イワンとミーシャの会 訳編



画像

(1989年7月)
003
(会のシンボルはスタジオ・クレイの水戸さんのデザイン)

----- 表紙 -----

001「チェルノブイリ原発事故から1000日」
http://kohno.at.webry.info/201202/article_9.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201202/article_10.html (その2)
002「チェルノブイリ/その過去と今後の展望」
http://kohno.at.webry.info/201202/article_13.html
003「チェルノブイリ・ノート」より
http://kohno.at.webry.info/201202/article_34.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201202/article_35.html (その2)
004「チェルノブイリのこだま」
http://kohno.at.webry.info/201202/article_42.html
005「チェルノブイリの後遺症は続く」
http://kohno.at.webry.info/201205/article_1.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201205/article_2.html (その2)
006「特別な注意を要する地域」
http://kohno.at.webry.info/201206/article_14.html (その1)
http://kohno.at.webry.info/201206/article_15.html (その2)
007「放射能ゾーンの子供たち」
http://kohno.at.webry.info/201209/article_2.html


(はじめに)

 ここに記載されている内容は、雑誌《コミュニスト(КОММУНИСТ)》1989年3月号に掲載されたG.メドベージェフの作品の概要である。この雑誌には、作品「チェルノブイリ・ノート(Чернобыльская Тетрадь)」の一部を抜粋して掲載してある。作者は原子力技術を否定しているわけではない。しかし彼が表現する事故の事実が原子力技術を否定している。
 この作品を読んで私が特に興味を引いた点をいくつか挙げておこう。
 1)L.A.ハリトーノワの証言の中で、「・・・しかし警察の検問所が郊外へ出ることを許可しませんでした。・・・」(p.22, L.4)と語っている。事故が起こった際、日本でも防災対策の範囲である10キロメートルを境にして同様な封鎖がおこなわれるであろう。(2012/2/13追記:日本ではなにも行われなかった。汚染した砕石の持ち出しも自由・・・)
 2)L.A。ハリトーノワの証言の中で、「・・・空気には金属的な臭いが強く感じられるようになりました。それがどういうものか正確には言えませんが、金臭い(かなくさい)のです。・・・」(p.22, L.24)さらに、G.N.ペトロフの証言の中で、「・・・空気の中に金属のようなものが感じられ、・・・」(p.23, L.7)と語っている。これはまさにTMI原発事故の際の住民の証言と一致するではないか!。 3)A.M.ボダコフスキーの証言。「・・・多くの遺体が強い放射能を帯びていました。・・・そこで遺体の埋葬の際には鉛の塩化物をしみ込ませた衣服を着用することになりました。・・・放射能の強い遺体は亜鉛の棺にいれてハンダづけにすることで解決しました。・・・これも放射能を帯びた遺体を扱ったためにできた火傷の斑点です‥・」(p.37, L.4〜)
 そのほか、想像を絶するような放射線下で作業をする人々の様子がわずかではあるが示されている。
 第三章、第四章を読んで、絶望的な気分に陥るのは私一人だろうか!?

 Makoto, K.さんにご協力をいただいて、今回の小冊子が出来上がりました。ご協力に感謝致します。また、関係者の方々にも感謝の意を表します。
 G.メドページェフの作品「チェルノブイリ・ノート」の全文は雑誌《新世界(НОВЫЙ МИР)》(1989年6月号)に掲載されています。

----- i -----

「チェルノブイリ・ノート」より
――― 無資格 ―――

項目

作品と作者について             ・・・・・ 1
〈第一章〉事故の社会的背景         ・・・・・ 3
〈第二章〉チェルノブイリ原発に関係した人々 ・・・・・ 6
〈第三章〉事故の状況・対策         ・・・・・17
     L.A.ハリトーノワの証言    ・・・・・21
     G.N.ペトロフの証言      ・・・・・23
     L.A.ハリトーノワの再証言   ・・・・・23
     V.N.シシーキンの証言     ・・・・・26
     G.N.ペトロフの再証言     ・・・・・31
〈第四章〉被害者たち            ・・・・・33
     V.G.スマーギンの証言     ・・・・・35
     A.M.ボダコフスキーの証言   ・・・・・36
     V.G.スマーギンの再証言    ・・・・・37

----- ii -----

「チェルノブイリ・ノート」より
――― 無資格 ―――

G.メドベージェフ 著


「チェルノブイリ・ノート」はグリゴーリー・ウスチノビッチ・メドページェフの1986年の作品である。この作品は原子力技術に精通したドキュメンタリー作家であり、多くの小説を発表してきたベテラン作家の努力作品である。しかし重要なことはG.メドベージェフが、ただ単に人から聞いた話ではなく、この作品に登場する人物の多くを以前の仕事の関係で個人的に知っているということである。彼は30年近く原子力産業に貢献してきた人物である。彼の経歴には船舶用原子炉の設置や調整、原子力発電所での炉の運転、いくつかの原子力発電所の設計・建設への参加、審査委員会の委員および原子力の専門家としての仕事などが含まれている。
 著者は原子力の利用は人間の知性の優れた成果であり、多くの人が将来にはその開発が必要だと考えている高度技術の一つであると考え、このような技術のレベルに、技術を利用しようとする社会のレベルの高さが対応する必要があることをすべての作品を通して表現しようとしている。そして文化のレベルと何らかの形でこの新技術に携わっている人々の精神的レベルの高さがなければ、その技術を安全に使うことはできないということを作者は語ろうとしている。もしこの対応ができなければ、生産活動は予想もできないような犠牲や災難の危険をはらんだものとなるだろう。
 G.メドベージェフは役所の縄張り主義に反対しているのであり、社会そのものの生命をあずかるいろいろな政策に関して世論によるチェック機能を制限するような不当な秘密主義をきびしく糾弾している。
 タス通信によれば、社会組織〈クリティカル・マス〉はアメリカの市民に対して次のような発表をおこなったという。すなわち、アメリカでは1987年、さまざまな故障により発電用原子炉が430回以上緊急停止した。また、原子力発電所の運転員は各種設備の運転において492件の規則違反をおかしたというものであった。
 これはいったいどういうことなのか?
 アメリカの原子力技術がソ連のそれに比べて遅れていることを示すものであろうか?
 そうではない。これは、アメリカの社会が、技術やその他の文化を一定のレベルにすることが可能なメカニズムを持っていることの一例を示すものである。原子力の利用が人間にとって異質ではなく、敵対する技術ではないということが理解される程度に社会が組織されているのである。
 ここに掲載するのは、無能とそれによりもたらされた無責任という問題に関する「チェルノブイリ・ノート」の一部である。残念ながら、これはわが国の生活の多くの側面を描いている。チェルノブイリの教訓は単にエネルギー問題だけにとどまるものではない。我々がそれをよく知れば知るほどペレストロイカ(改革)路線での前進が可能であり、進歩と刷新の方向へより早く進むことができるだろう。


《第−章》

 「〈チャレンジャー〉の乗組員の死とチェルノブイリ原子力発電所での事故。いずれも人間がつくり出した驚くべき大きな力を人間はまだ自分のものにしてはいないし、人類の進歩のために用いることをようやく学びだしたに過ぎない。これらの事故はこの事実をきびしく思いおこさせ、我々により強い警告を発している。」1986年8月18日、ソ連中央テレビにおける声明の中でミパイル・セルゲーエビッチ・ゴルバチョフはこのように語った。ソ連での35年にわたる原子力利用の歴史の中で、このようにきわめて冷静な評価が平和利用の原子力に与えられたのは初めてのことである。
 長年にわたってわが国の学者は、新聞・雑誌やラジオ。テレビを通じてまったく別なことを伝えていた。平和利用の原子力はまったく安全で環境を汚さず、他の技術に比べ信頼性は一番高く、といった具合いにまるで全能の神ように宣伝されていたのである。原子力発電所の安全に関する状況は、ほとんど神話に近いものになっていた。 原子力発電所の安全宣伝に特に大きく寄与したのは、当時の〈ソ連原子力利用国家委員会〉議長のA.M.ペトロシャンツであった。彼は、1986年5月6日、モスクワでの記者会見で、チェルノブイリの悲劇に関連して、多くの人々を驚かせる次のような発言をおこなった。「科学には犠牲が必要だ。」 彼がこのような発言をしたということを忘れてはならない。
 原子力発電所の運転に関係する人々が学者の楽観的な予測や発言に同意していたわけではない、ということを言うべき時になった。つまり執務室や研究室の居心地のよい環境にいる人々ではなく、直接に平和利用の原子力と関わりを持ち、日々その作業場所で原子力と向かい合っていた人々は決して楽観的ではなかった。
 危険を予告するような前兆は十分にあった。原子力発電所の発電量は急増し、威信は天にまで届く勢いであった。ところがそれに反して、原子力関係者の責任感は失われていったのである。原子力発電所の通常運転においてはすべてがごく簡単で事故などは起こらないため、責任などそれほど考えなくてよかったからである。 ちょうどそのころ、原子力発電所の運転員の不足が顕緒となり、原子力発電所の幹部クラスの異動も始まった。かっては、原子力をこよなく愛する人間が原子力発電所へやってきて働くのが一般的であったのに、今や信念のない人々が押し寄せるようになってきた。私の見る限りでは、賃金よりも権威がその原因だったのであろう。
 P.S.ネパロージヌイが〈ソ連発電電化省〉の大臣をつとめていた頃、原子力発電所での事故が社会から隠されるということが日常的になった。事故が社会や政府に知らされなかっただけではなく、国内の原子力発電所の従業員にも知らされなかった。失敗の経験に関する情報が欠如すれば常にその再発のおそれがあるという理由から、この事故隠しは特に危険であった。ネパロージヌイ大臣の後継者となったA.I.マイオレツも事故隠しの伝統をそのまま続けた。彼は大臣に就任してから半年後、勤務作業員や住民に対する放射能の影響に関する情報や、発電所が環境に及ぼす悪い影響(電磁界の作用、放射性ガスによる大気汚染、水や土壌の汚染)に関する情報を出版物やラジオ・テレビで公表することを禁ずる命令書にサインした。

 1983年4月、私は原子力発電所の建設における頼りない計画策定に関する記事を、中央の新聞社の一つに持ち込んだ。記事は採用されなかった。その記事の一部を引用しておこう。
 『原子力発電所の建設部門における非現実的な計画、そして数十年にわたって続いている慢性的な建設の遅れの原因は一体どこにあるのか? それには三つの理由が考えられる。
 1.発電設備の建設を計画し、原子力発電所の建設部門を管理する関係者の無能
 2.非現実的な計画、そして評価能力がないために計画がはっきりしないこと
 3.機械製作関係各省が、原子力発電所の設備を必要な数だけしかも十分な品質で生産する体制になっていないこと
 有能さが計画の内容と実現に対して直接のかかわりを持つのと同じく、原子力発電所の安全についても直接関係を持っているという事実はきわめて明白なことである。しかし残念ながら、このことについては何度も思い起こさせることが必要である。なぜなら我々が見たところ、原子力部門の多くの指導的地位が必ずしもふさわしい人によって占められているとはいえないからである。
 やみくもにアカデミー会員たちを信用してきたわが国の事なかれ主義も驚くべきものといえよう。そのために、チェルノブイリは晴天の霹靂のごとく我々の頭上になだれおちてきたのではないだろうか。しかしながら、チェルノブイリはすべての人の心をゆさぶったとはいえないのである。残念なことに、事なかれ主義と盲信は消えていない。冷静に吟味するよりも盲信する方がはるかに易しいのだ。何よりもあれこれ思いわずらうという手間が省けるというものだ。』


《第二章》

 1986年4月25日、チェルノブイリ原子力発電所では定期検査のため第4号炉を停止する準備がおこなわれていた。原子炉の停止期間中に、技師長N.M.フォーミンによって許可されたプログラムにもとづいて、原子力発電所の設備が完全に停電した状態で保護系を切って実験をおこなうことが予定されていた。電力をつくるためには発電機の慣性回転力を利用することになっていた。ところでこのような実験は多くの原子力発電所で考えられてはいたが、実験が危険であったためすべて許可されなかった。しかし、チェルノブイリ原子力発電所の指導部はこの実験に同意したのである。

この実験の必要性はどこにあったのであろうか?

 原子力発電所が突然停電となった場合、当然のこととして全ての装置が停止する。これらの装置の中には、原子炉の炉心に水を循環させているポンプも含まれている。これが停止すると炉心の溶融が起きるが、これは設計上最大の事故に相当する。このような場合には、可能性のあるあらゆる電力源を利用しようというのが発電機の慣性を用いた実験だった。発電機が回っている間は電力がつくられるからである。緊急時においてもそれを利用することが可能であり、利用すべきなのである。
 過去に炉の保護系が動作する状態で、同様な実験がチェルノブイリ原子力発電所およびその他の発電所でもおこなわれたことがあった。そしてすべての実験は成功していた。私自身、このような実験に立ち会ったことがある。
 ふつう、このような実験の作業プログラムはあらかじめ用意され、炉の設計長、発電所の設計総長、〈国家原子力監視委員会〉の承認をとりつけることになっている。計画書にはこのような場合、実験中の電力供給の予備を規定しておかなければならない。つまり、実験の際には発電所の停電は予想されるだけで、実際には停電しない。
 チェルノブイリ原子力発電所の技師長N.M.フォーミンの許可したプログラムはこれらの必要とされ、専門家にはよく知られている規定のどれにも合致していなかった。
 1986年1月、原子力発電所長V.P.ブリュハーノフはこの実験計画を、〈水力工学設計研究所〉と〈国家原子力監視委員会〉設計総長の承認を得るため送付した。回答はなかった。チェルノブイリ原子力発電所の幹部も、運転連合〈全ソ原子力発電〉も彼らの実験計画を気に止めなかった。〈水力工学設計研究所〉も〈国家原子力監視委員会〉も同様であった。
 これでもうかなり先までわかる結論が容易に得られるであろう。すなわち、これらすべての国家機関において無責任体制が蔓延していたということである。したがって、設計総長、発注主管組織〈全ソ原子力発電〉および〈国家原子力監視委員会〉がこのような計画を検討し制限する力を持っていたにもかかわらず誰一人として注告を与えなかった。むしろ、実験計画を検討することはそれら機関の直接の義務であった。そして、これらの組織の中には具体的な責任のある立場の人々がいたのである。彼らは一体何だったのか?

 〈水力工学設計研究所〉は、チェルノブイリ原子力発電所の設計主管組織であり、ここでの原子力発電所の安全についての責任者はV.S.コンビスであった。彼は水力工学設備のベテラン設計技師であり、工学博士候補である。1972年から1982年の長期間にわたって原子力発電所の安全に関する責任者であった。1970年代から原子力発電所の設計を始めたコンビスは、原子炉についての基礎的な理解をもっていなかった。そしておもに水力工学施設の設計専門家を原子力発電所を設計する仕事に組み入れた。これでおそらくすべてのことがはっきりしたといえるだろう。このような人間が、実験計画、そして原子炉そのものが内包している災害の可能性を予見することはできなかったのである。
 〈全ソ原子力発電〉は〈ソ連発電電化省〉の連合組織であり、原子力発電所の運転と運転員の全ての行動に対して実質的に責任を負う組織であるが、そこの長はG.A.ベレテンニコフであった。彼は原子力発電所の運転にはたずさわったことはなく、1970年から1982年にかけて〈ソ連国家計画委員会〉で原子力発電所用の設備の納入計画を担当していた人間であった。〈全ソ原子力発電〉に長年勤めているY.A.イズマイロフは次のように語っている。「ベレテンニコフになって、炉や炉物理にくわしい専門家が非常に少なくなった。そのかわりに会計部門が大きくなり、資材調達と計画部が拡大した。」
 〈全ソ原子力発電〉の生産部長E.S.イワノフは、チェルノブイリ原発事故の少し前に、原子力発電所で多くなりつつあった緊急事態について次のように弁明している。

 「どこの原子力発電所も技術規則を完全には実行していないし、実行は不可能だ。運転上の実践によりたえず規則を修正している。」

 チェルノブイリ原発事故のみがベレテンニコフを離党させ、〈全ソ原子力発電〉の部長のイスから追い出したのである。
 〈国家原子力監視委員会〉には十分に知識のある経験の多い人々がそろっていた。この委員会の長は物理学者で核利用者であるE.V.クーロフであった。彼は〈中型機械製作工業省〉で長い間原子炉の仕事をしていた。しかし不思議なことに、クーロフもチェルノブイリから送られてきた実験計画を放置していた。
 なぜか? それはこの委員会の主要任務が、原子力発電設備の設計、建設、運転の安全に関する規則、基準、指示をすべての省庁、企業、組織機関、関係者が遵守することを国家レベルで監視することにあったからである。
 この委員会には、安全規則や安全基準が守られなかったり、設備の欠点が発見されたり、作業員が不適格であったり、その他発電所の運転が危険となるような場合に、原子力発電所の運転を停止させることができるほどの強い権限が与えられている。
 1984年、クーロフが〈国家原子力監視委員会〉の委員長に任命されたばかりの頃、ある会合で次のような発言をしたことを私は思い出す。彼は原子力発電関係者を前に〈国家原子力監視委員会〉の機能を次のように説明したのである。

 「私が諸君のために働くと思わないでほしい。はっきり言えば私は巡査である。私の任務は諸君の正しくない行為を禁止し除去することである。」

 残念ながら、クーロフは巡査としてもチェルノブイリの事故では機能しなかった。誰一人として面白くもないテスト計画に反応を示さなかった。まるで談合したかのようであった。一体どうしたわけなのか? 要するに黙認というこれまでのやり方が使われたのである。情報公開(グラスノスチ)がなされないから、教訓もない。おそらく事故も存在しないだろう。すべて安全で、すべて信頼性が高い。アブタリブは奇しくもこう言っている。
 「ピストルで過去を撃つものは、それによって将来を大砲から撃ち出していることになる」
 私はこれを特に原子力発電のために次のように言いかえたいと思う。
 「それによって将来を炉の爆発や核惨事で打ち砕くことになるだろう。」
 しかし、〈国家原子力監視委員会〉〈水力工学設計研究所〉〈全ソ原子力発電〉の無責任さがどうしてチェルノブイリ原子力発電所のブリュハーノフ所長やフォーミン技師長は気づかなかったのであろうか。承認されていない計画で作業をおこなうことは禁じられているのである。一体、これらの人々は何の専門家だったのか? 彼らについて手短に述べておこう。

 私がV.P.ブリュハーノフと知り合ったのは1971年の冬であった。その時、私は放射線障害のため治療をしていたモスクワの診療所から直接原子力発電所の建設現場へ行くために、プリピャチの村へおもむいた。私はまだ具合がよくなかったが、歩くことはできたので、働きながらできるだけ早く通常の生活に戻ることに決めたのである。自らの希望により退院したいという書類を提出して、汽車に乗り翌朝キエフに着いた。キエフからタクシーで2時間、プリピゥアチへたどり着いた。
 プリピャチの村の冬の一日は太陽が照り暖かかった。タクシーの運転手は長いプレハブのそばで車を止めた。このプレハブが建設本部となっていた。私は歩くときしむ床を踏んで中へ入った。所長室は6平方メートルほどの小さな部屋であった。ブリュハーノフは立ち上がって私と握手した。背は低く、縮れた黒い髪、日焼けしたしわだらけの顔。温和で従順な性格という最初の印象はその後さらにはっきりとしてきたが、それと同時に別の一面も見えてきた。つまり知識不足のために、世なれた人を自分のまわりに集めようとするのである。しかしこれらの人は必ずしも廉潔な人ばかりとはいえなかった。ブリュハーノブはその当時まだ36才と若かった。優れた成績でエネルギー関係の大学を卒業し、スラビャンスキー火力発電所(石炭)に勤務することになった。ここで設備の始動に手腕を発揮した。数日間帰宅もせずよく働いた。私は後に彼と数年間一緒に仕事をし、彼がとても優秀で有能な技師であることを知った。しかし不幸なことには彼は原子力の専門家ではなかった。やがて、スラビャンスキー火力発電所を管轄しているウクライナ発電省の次官に認められてブリュハーノフはチェルノブイリの所長に昇進した。
 私がチェルノブイリにきて数ヵ月が経過した。要員編成をする段階で、私はブリュハーノフに原子力発電所で長年働いたことのあるベテランスタッフを推挙した。いつものようにブリュハーノフはすぐには拒絶しなかったが、次第にこれらのポストに火力発電所の作業員を加えるようになった。彼の意見によれば、原子力発電所では強力なタービンシステムや送配電設備をよく知っている発電専門家が働くべきだというのである。そこで私はブリュハーノフを通さずに〈原子力発電総局〉の支持を取り付け、やっとのことで炉および特殊化学部門を専門家で固めることができた。
 1972年来、N.M.フォーミンとT.G.プローヒーがチェルノブイリ原子力発電所へやってきた。ブリュハーノフはフォーミンを電気部長に、プローヒーをタービン部次長に任命した。この二人ともブリュハーノフの次の所長候補者であった。
 フォーミンは教育と作業経験では《電気屋》であった。彼は当初ポルタワの配電所に勤務した後、ザパロージェ火力発電所へ移り、そこからチェルノブイリへ推挙されてきたのであった。運転関係の技師長代理であった私はフォーミンと次のような話をしたことがある。私が、「原子力発電所が放射能のある設備できわめて複雑であるが、ザパロージェ火力発電所の電気部からこちらへ移って、そういうことを十分考えているか」と問うたのに対して、彼は、「原子力発電所の仕事は名誉なことであり、超近代的な仕事だと考えている」と答えた。
 低いバリトンの声が、興奮したときにはアルトに変わった。角張った体格、黒い目の輝き。仕事はきちんとしており、きびしい。気位が高く執念深い。内面ではいつもバネが縮んだ状態で、いつでも飛び出せるようにしているのではないかと思われた。
 それに対して、タラス・グリゴーリエビッチ・プローヒーは、典型的な粘液質タイプで慎重ではあるが精気に欠けていた。しかし仕事に精通しており粘り強く勤勉であった。仕事の上での粘りと段取りのよさがなかったら、第一印象ではうすのろという印象を与えただろう。彼がスラビャンスキー火力発電所でブリュハーノフと共に働いていたという近さが、多くのことを覆い隠し、ブリュハーノフと親しいということで彼がよけいに優れて見え、よく働いているように見えたのである。
 ブリュハーノフはプローヒーとフォーミンをチェルノブイリ原子力発電所の幹部に積極的に登用した。先行したのはプローヒーである。まず運転部門の技師長代理となり、技師長となった。ブリュハーノフの推挙により、建設中のバラコボ原子力発電所の技師長となった。この原子力発電所はVVER(水・水炉【加圧水型】)を使っているが、その設計をプローヒーはよく知らなかった。
 一方チェルノブイリ原子力発電所では、フォーミンが、据え付けおよび運転部門の技師長代理となり、プローヒーの後の技師長に就任した。ここで特に記しておかなければならないことがある。つまり、〈ソ連発電省〉はフォーミンの技師長就任を支援せず、炉のベテラン技師であるV.K.ブロンニコフを推挙していた。しかし、キエフは、ブロンニコフをありきたりの《技術屋》とみなしてその推挙に同意しなかった。フォーミンの方が、きびしくきちんとしたリーダーであるから、彼が望ましいというわけである。そこでモスクワは譲歩し、事態は解決した。この譲歩の結果は周知の通りである。いったん立ち止まって、回りをよくみて、バラコボの経験を十分考えて、責任とか注意深さを強化する時期といえたのである。しかし……。
 1985年の終わりにフォーミンは交通事故にあい、背骨を折った。長い間身体が動かせず、希望は失われたかに見えた。しかしその困難を克服してフォーミンは1986年3月25日、職務に復帰した。チェルノブイリの爆発の1ヶ月前のことである。私はちょうどそのとき、建設中の第5号炉の点検のためプリピャチにいた。作業は思わしくなかった。設計書類や設備の不足のため仕事は遅れていた。第5号炉のことで特別に開いた会合でフォーミンを見かけた。健康そうであった。彼の挙動には抑制したような感じと不幸を経験した悲しみが感じられた。わたしはこのことをブリュハーノフに話した。ブリュハーノフはたいしたことはないだろう、仕事をしているうちにまともになるだろう≠ニ答えた。
 我々はさらにいろいろな話をした。ブリュハーノフは、チェルノブイリ原子力発電所では、バルブが不良のため漏れが多く、水や空気が漏れているとこぼした。放射能を帯びた水漏れの総量は測定しきれないほど大量で、どうにかこうにか蒸発装置で処理をしている有様だという。放射性廃棄物も多い。非常に疲れを感じておりどこか別の職場に移りたいとも語った。

 さて、ここでチェルノブイリ原子力発電所の第二期設備【3、4号炉】の運転部門の技師長代理であるアナトーリー・ステパノビッチ・ディヤトロフについて述べておこう。
 痩せ型で、白髪をきちんと櫛けずり、くぼんだしょぼしょぼの目をしたディヤトロフは、1973年のなかばに原子力発電所へやってきた。それまでは、極東にある工場の物理実験室の室長をしていた。小型の船舶用原子炉に関する仕事をしていたが、原子力発電所での勤務経験はなかった。発電所の熱の流れもウラン黒鉛炉についても知らなかった。私は彼に尋ねた。「新しい設備でどう仕事をするつもりか?」
 彼は答えた、「覚えるさ、バルブやパイプはあそこに見えている。これは炉物理よりも簡単だ。」
 彼はおそらく緊張していたのであろう。間をおきながら言葉を押し出すように話したように見えた。彼の性格は重苦しいと感じられた。
 私はブリュハーノフに対して、ディヤトロフを原子炉部長にしてはいけないと言った。彼は人づき合いが下手で、性格的に運転員の管理をするのはむずかしく、以前の仕事が純粋な物理学であり、原子力技術を知らないというのがその理由である。一日たって、ディヤトロフの原子力部次長の発令がなされた。ブリュハーノフは私の意見をいれて、ディヤトロフを一段低い職務に任命したわけであるが、原子炉部という方向は変えなかったのである。私がプリピャチを去った後、ブリュハーノフはディヤトロフを原子炉部長に昇進させ、やがて、原子力発電所第二期設備【3、4号炉】の運転担当技師長代理に任命した。
 ディヤトロフは、緊急事態が発生した瞬間に即座に唯一の正しい情勢判断をする能力があっただろうか? おそらくなかったと思う。のみならず、原子炉の運転員のリーダーに必要とされる慎重さと危険を察知する感覚がディヤトロフには十分備わっていないようであった。それどころか運転員をないがしろにし、規則を軽視していた。
 一体どうしてこのような無秩序、そして犯罪的なまでの無責任体制になってしまったのだろう。一体誰がいつ、白ロシアとウクライナのポレーシェの地で核惨事の起きる可能性を我々の運命のプログラムに組み込んだのだろう。そしてなぜ、キエフから130キロメートルの場所にこのウラン黒鉛炉が発電炉として選ばれたのか。この問題については既に15年も前に、多くの人が疑問を抱いていたのである。
 当時のウクライナ共和国の発電省の大臣であったA.N.マクーヒンに呼び出されて私とブリュハーノフがキエフへおもむいたことがあった。マクーヒン本人は教育、仕事からいって火力発電の専門家であった。キエフへの途中、ブリュハーノフはこう言った。「説明をすることになったら、できるだけわかりやすく原子力発電や原子炉の構造について大臣や次官たちに説明してやってくれ、彼らも私と同じように原子力発電所のことをすべて心得ているわけではないからな……」
 ウクライナ共和国の発電省大臣、アレクセイ・ナウーモビッチ・マクーヒンは非常に尊大であった。私はチェルノブイリ型の原子炉装置、原子力発電所のレイアウト、この型の原子力発電所の特徴について説明した。
 マクーヒン大臣はたずねた。「君の考えでは、炉の選定は妥当といえるか、つまり、キエフのそばでも大丈夫といえるか?」
 私はこれに対して、「チェルノブイリ原子力発電所にはウラン黒鉛炉よりもむしろノボボロネジ型のVVER(水・水炉【加圧水型】)が適していると思う」と答えた。二次系のある発電所の方がきれいで、パイプラインが短くてすみ、排気中に含まれる放射能が少ない。要するにより安全なのだ。
「君は、ドレジャリ・アカデミー会員の結論を知っているかね? 彼はその炉をソ連のヨーロッパ地域には設置しないようにと勧告している。しかしよくわからないがいろいろと議論が進んでいるようだ。」「私が言えることは、ドレジャリ氏の言う通りで、設置すべきではないと思います。」「それではどうして、ドレジャリ氏は自説をもっと強く主張しないのか?」とマクーヒンはきびしく問うた。「わかりません、アレクセイ・アカデミー会員よりも強い力を持つ人が現れたのでしよう。」
 「チェルノブイリの原子炉では運転中の排気はどれくらいかね?」とやや心配気味に大臣が尋ねた。「一昼夜で4,000キュリー以下です」「ノボボロネジ型の炉では?」「100キュリーです。その差は大きいと思います。」「しかし、アカデミー会員たち… アナトーリー・ペテロピッチ・アレクサンドロフはこの型の炉はもっとも安全で経済的だとほめている。君は少しオーバーな言い方をしている。まあ仕方がない、何とかしよう。我々のウクライナでの1号炉がノボボロネジよりもきれいで安全になるように運転員たちにがんばってもらわなければならん!」
 1982年、A.N.マクーヒンはソ連発電省の中央組織へ移り、発電所と送電網の運営を担当する第一次官の職についた。1986年8月14日、チェルノブイリ原発事故の総括で、ソ連共産党中央委員会の党統制委員会の決定により、チェルノブイリ原子力発電所の運転の信頼性向上につき十分な対策を講じなかったことに対し、彼に対してきびしい党戒告が発表された。
 今にして思えば、1972年、チェルノブイリの炉型をVVERR(水・水炉【加圧水型】)に変更すれば、1986年4月に起きた事故の可能性を大幅に減らすことができたのである。
 もう一つ面白いエピソードがある。1979年12月、私はモスクワで働いていたが、点検調査のためチェルノブイリ原子力発電所へ出張した。原子力発電所の建設企業の集会で、当時のウクライナ共産党キエフ科学委員会の第一書記であったウラジミール・ミハイロビッチ・ツイブリコが発言した。彼の火傷の痕の残る顔(戦争中彼は戦車兵であった。そして、戦車の中で火傷をおったのである)は真顔になり、空をにらみながら、反論に出会ったことのない人のような調子で話した。
「諸君、見たまえ。プリピャチの町はなんと美しいことか。目を楽しませてくれるではないか。諸君は言う。4つの発電用原子炉をと。私はこう言いたい。それでは少ない。8つ、いや12、いっそのこと発電用原子炉を20にしたい。それで、町も10万人にふくれあがる。単なる町ではなく、おとぎ話のような世界だ。原子力発電所を建設する労働者と技師が多く集まってくる。新しい土地に建設するよりも、ここに建設しようではないか。」
 彼が息をつくのを見計らって、私は次のように口をはさんだ。「原子炉の炉心が集中しすぎると多くの思わしくないことが生じてくるだろう。戦争や原子力発電所への攻撃、あるいは極端な核事故の場合、国家の安全が危うくなる可能性がある。」 私のコメントは特に注目されぬままになった。しかし同志ツイブリコの提案は基本方針として熱烈に受け入れられた。まもなく、チェルノブイリ原子力発電所の第三期工事【5、6号炉】が始まり、第四期分の設計にとりかかった。

003「チェルノブイリ・ノート」より(その2)
http://kohno.at.webry.info/201202/article_35.html(その2)

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(1989)「チェルノブイリ・ノート」より(その1) kohnoのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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