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zoom RSS ‘市民によるチェルノブイリ事故調査団’ ソ連旅行の個人メモ

<<   作成日時 : 2011/10/22 22:19   >>

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‘市民によるチェルノブイリ事故調査団’による放射能測定メモ
http://kohno.at.webry.info/201110/article_6.html
の元になったメモです。
書き写していて、改めて福島市や郡山市、その近県の都市の汚染のひどさを再認識した。
‘市民によるチェルノブイリ事故調査団’
ソ連旅行の個人メモ

1990.09.19 Ver. 1.0
by M.Kohno

● お願い
これは、とりあえず河野の記憶を元に作成したもので、数値・人名・地名・施設名等については他の調査団のメンバーの指摘により大いに変更の可能性があります。したがって、内部メモ的性格が強いので、内容を転記する場合は事前に連絡してください。お願いネ! なお、河野がもらった名刺については最終項に示してあります。
● メンバー
イリーナ・ツーリナ(現地通訳)
MK(京都府)、KT(東京都)、HT(神奈川県)、YF(神奈川県)、HY(広島県)、MY(東京都)、RW(東京都)
* その他協力者多数
● 時間について
旅行当事の時間は、モスクワで日本より5時間遅れており、キエフ及びミンスクではサマータイムのためモスクワより1時間おくれています。そのため、キエフ及びミンスクは、日本時間より6時間遅れていることになります。なお、このメモで示す時間は原則として現地時間です。
● 見て歩記

1990.08.21(火)
  朝7時頃、成田で合流する2名を除き、箱崎エアターミナルに集合。荷物のX線検査を受ける。検査員が放射線に対する不安を語り、X線装置付近の放射線量を測定してくれと頼まれる。短時間では測定できない旨を話し、会社側に調査を要求するようアドバイス。荷物の重量35kg。箱崎からバスに乗り、9時頃成田着。残りの2名と合流。1名がバスの中にパスポートの入った荷物を忘れあわてる。HWさんたち(静岡グループ)の荷物におどろく。11時30分頃、アエロフロート機は定刻より30分ほど遅れて離陸。日本海上空付近で大揺れ。飛行機は嫌いである。CsI検出器のテストを兼ねて、水平飛行時(14:35から10分間)に放射線の数の変化を測定する(690〜1,000 CPM: BKG 70 CPM)。飛行機が降下する際の放射線の数の変化をCsI検出器で測定。高度による差がはっきりと認められ、検出器の有効性が示された。但し、少し振動に弱いのでこの点を改善する必要がある。16時30分(日本時間21時30分)頃モスクワ到着。気温12度。30度の世界から来た薄着の人間には少し寒い。入国時にX線検査で真っ黒な鞄を開けさされる。鉛に包んだTLDがひっかかったようだ。HY氏の通訳で線量計であることを説明。日本の係官と同様、ここを測ってくれという。困った。HY氏が助けてくれる。通訳のイリーナさんに会う。19時頃モスクワのはずれにあるホテル(ドーム・イン・ツーリスト)に到着。27階。窓をあけ持参したミニ・ポンプで空気を引く。ホテルの水道水を採取(少量)。窓、テレビなどをスミア濾紙で拭き取る。室内での空間線量率 〜10μR/h(約0.1μSv/h)。

1990.08.22(水)
  ホテル前の空間線量率 〜8μR/h(約0.08μSv/h)、バスの中 6〜8μR/h(約0.06〜0.08μSv/h)(CsIで10,000カウントになるまでの時間は約9分52秒)。9時にホテルを出て、10時30分頃、モスクワのチェルノブイリ同盟(キトロフ氏、グリシン氏)を訪問し、チェルノブイリ博物館に日本で出版されているチェルノブイリ関係の書籍を贈呈。チェルノブイリ博物館を見学。事故当時、破壊された4号炉の隣にある屋根の上は 10,000 R/h(約100 Sv/h = 100,000 mSv/h = 100,000,000μSv/h)あったこと。4号炉周辺の土壌は表層30cm程度が除去されたこと。事故の後始末には約60万人が参加し、その内の半数は軍人であったこと。2,000 R/h(約20 Sv/h = 20,000 mSv/h = 20,000,000μSv/h)の放射線下で、4kgの鉛入りのエプロンをして作業(数分間)する人もいたことなどを聞く。昼食のためホテルへ。13時30分頃から雨。雨を採取。昼食後、15時40分頃、SCPPNW(Soviet Committee of Physicians for the Prevention of Nuclear War)の事務所を表敬訪問。赤の広場をほんの短い時間散歩。旧カリーニン通りを歩く。ソ連にはいないはずの‘物乞い’にお金をせがまれる。12才前後の女の子一人と6才位の男の子二人。‘放浪の民’の子供だとのこと。途中で土砂降り。近くの薬局で雨宿り。19時頃通りを離れバスで飛行機へ。霧のため(?)飛行機が遅れる。23時(モスクワ時間24時)頃キエフへ到着。ヤコブレフ氏とキエフのチェルノブイリ同盟のイリーナさんが出迎えてくれる。二人とも太め。バスでキエフ・ホテルへ。23時50分頃、7階にあるホテルの部屋へ。床は板張り。13〜14μR/h(約0.13〜0.14μSv/h)。CsI検出器が10,000カウントになるまでの時間: ベッドの上で約3分25秒、床の上で約3分30秒、窓際で約4分8秒。大雑把にモスクワの2倍。空気を引く。

1990.08.23(木)
  朝、靴をスミア。キエフ・ホテル玄関前 〜16μR/h(約0.16μSv/h)。ホテル近くの草むら 〜16μR/h(約0.16μSv/h)(10,000カウントになるまでの時間約2分35秒)。二手に分れ、一グループは写真家(コスティン氏)、映画監督(シュカレフスキー氏、マイクロフォンを撮影した人)に会いに出かける。私たちのグループはヤコブレフ氏の案内で、10時30分、ホテルを出てバスでチェルノブイリ原発へ向かう(出発前のバスの中: 11〜13μR/h(約0.11〜0.13μSv/h))。広島大学の偉いさんたちと同乗。そのグループに同行していた通訳の女性は、ガンの手術をしたことがあるとのことで、放射能のある現場へ行くことを恐がっていた。彼女に、持参したマスクを進呈する。およそ80km/hで移動するバスの中で空間線量率を測定。持参したサーベイ・メータはマイクロ・コンピューターが内蔵してあり、時定数を自動的に選択してくれるので助かる。13時30分、30キロ・ゾーンのゲートに到着(バスの中で16μR/h(約0.16μSv/h))。13時50分、原発から約11kmにある第2ゲートに到着(バスの中で32μR/h(約0.32μSv/h))。汚染地域用のバスに乗り換える(バスの中で41〜44μR/h(約0.41〜0.44μSv/h))。バスには運転手と案内係(アルテメンコ氏)の他にカメラを持った変なお兄さんが乗り込んだ。YF氏の話によれば、前回も同様に人が乗り込んだそうで、その人が日本語を理解するということは、見学の最後まで判らなかったそうだ。バスの窓ガラスをこっそりスミア。道路は全てアスファルトで覆われており、常に散水して汚染を洗い流すとともに、ほこりがたつのを防いでいる様子がうかがえる。現在、チェルノブイリ原発に勤務する人たちのアパートの前を通って、来客を迎えるための建物‘迎賓館’に到着(48μR/h(約0.48μSv/h))。「30キロ・ゾーン内には全部で17,000人の人々が交代で勤務している。その中には、除染作業から化学研究までをおこなう‘プリピャチ’と名付けられた科学技術事業があり、6,000人が勤務している。労働者には、15日働くと15日の休暇が与えられる。‘石棺(サルコファーガ)’内部の温度は80度以下である。日本人が一番よく見学にくる。笹川が50億円だす。」などの話を聞いた後、昼食。トイレに入りドア等をスミア。昼食後、再びバスに乗り無人となったプリピャチの町、チェルノブイリ原発を見る(原発から200〜300メートルの位置: 4,000〜4,500μR/h(約40〜45μSv/h))。プリピャチにある研究所(汚染した土地からきれいな野菜を作る研究(?)をしていた)のトイレでスミア。15時57分、再び‘迎賓館’に戻り、ハンド・フット・クロース・モニターで汚染検査。異常なし。バスを乗り換えた後、18時15分、30キロ・ゾーンの出口で汚染検査。異常なし。検問所を出てしばらくすると、検問所の方向からものすごいスピードで車が追ってきた。バスの前に止り、キエフへ行く人を一人のせてほしいということであった。一安心。一路ホテルへ。自らの出す排気ガスがバスの中へ入ってくる。かなりひどい。約一名、排気ガスによりダウン。20時30分頃、ホテルに到着。空気を引く。

1990.08.24(金)
  キエフ・ホテル7階の窓、床などをスミア。靴をスミア。第一グループは、コスティン氏の写真を日本に展示するための交渉に向かう。今日もヤコブレフ氏がつきあってくれる。私たちのグループは、午前中、全ソ放射線医学センターを見学(チュマック氏)。移動は大型バス。このセンターは1986年(事故後)に開設されたとのこと。同センターに入院中の消防士2名(ビクトル氏:37才、バービン氏:36才)と会う。12時50分頃、キエフの産科婦人科病院(ルキャノバ女史、ヤコブレフ氏)を訪問。病院で第一グループと合流。カンパとして病院に千ドル渡す。昼食をごちそうになる。メインはキエフ風‘ギョウザ’。ジャガイモ、いちごジャム、チーズなどが個別に入っている。食事の態度がよいとルキャノバおばさんにほめられる。要するによく食べたということ。食べ過ぎてしまった。病院内を見学。体内の放射能を除去する薬の話を聞く。病院内のトイレのドア等をスミア。ホテルに帰り、緑の世界の人たちと会う(デミデンコ氏、ティーヒー氏)。18時過ぎ、前日に引き続き空気を引く。ホテルの水道水を採取。

1990.08.25(土)
  9時40分、ホテルを出て産科婦人科病院へ向かう。病院でシチェルバク氏とシュカレフスキー氏に会う。ルキャノバ女史、ヤコブレフ氏、キエフのチェルノブイリ同盟のイリーナ女史他が同席。「事故による放出放射能は10億〜60億キュリー(3,700〜22,200万テラ・ベクレル:どのくらいかは自分で調べてネ)である。事故処理作業に従事した人の数は60万人に上り、そのうち13万人はウクライナに住んでいる。ウクライナでは100万人が汚染地域に住んでおり、彼らは基準値以上の汚染食料を食べている。ウクライナでは今後15,000人を避難させる予定である。・・・(シチェルバク氏)」「今でも10,000人以上の甲状腺異常がある。白血病、のど・肺・肝臓のガンが増えている。チェルノブイリ・エイズと呼ばれる免疫不全も多い。急性及び慢性の貧血症も多い。・・・(ルキャノバ女史)」。マイクロフォンを見る。英語吹き替え版。農家の柵の付近でGMサーベイ・メーターの値を読む声が聞えた。‘260,000’マイクロレントゲン毎時(= 2.6 mSv/h = 2,600μSv/h)。もう一本ビデオを見る(石棺?)。ロシア語版。昼食をごちそうになる。13時、病院を出てナロジチへ向かう。ヤコブレフ氏、キエフのイリーナ女史が同行。バスの中で空間線量率を測定。ヤコブレフ氏がときおり私の持っているサーベイ・メーターの値を読み上げる。親しみを込めて、声の出る測定器と呼ぶ。14時10分から20分程度、土壌及び松葉試料を採取(30〜38μR/h(約0.30〜0.38μSv/h))15時15分から15分程度車から降りる。閉鎖された汚染地域を通って汚染の低い村へ通じる道路に検問所がある(道路上140μR/h(約1.40μSv/h)、藪の中450〜510μR/h(約4.50〜5.10μSv/h))。警備員の話によれば、15日働いて15日休むそうである。16時15分、ナロジチの中心に到着(20〜32μR/h(約0.20〜0.32μSv/h))。アスファルトにおおわれた町という感じ。途中の道路脇はすき返されており、農地改良(土を40cm程度すき返す)が行なわれている。近くの川へ出かけ水を採取。川岸の泥を採取。この川は近くの人たちが大きな物(シーツなど)を洗濯する際の洗い場になっているとのこと。キャベツを抱えた可愛いおばあさんに会う。プラムをもらい食べる。お前は放射能が恐いかときかれ、うなずく。近くの家庭菜園を見せてもらう。畑はすべて40cm程度の天地返しをおこなっているとのこと(72μR/h(約0.72μSv/h))。じゃがいも、にんじん、にんにくをもらう。18時15分、ナロジチの村にある移住させられた地区へ向かう。18時26分到着(草むら560〜680μR/h(約5.60〜6.80μSv/h))。村に通ずる道路には検問所があったが、誰もいなかった。また、有刺鉄線で柵がしてあるため、畑の中へは入れない。しかし検問所のすぐ近くの畑では農作業が行なわれていた。ホテルへ。他の人たちはヤコブレフ氏の招待でオペラ(バレー?)見物に。私は一人試料調整。夜おそく(23時頃)ヤコブレフ氏の自宅に招待される(HY氏と私)。ヤコブレフ氏の車でキエフのイリーナ女史、HY氏、私が同乗してヤコブレフ氏のアパートへ。イリーナ女史の家も同じ敷地のアパートであった。1時頃ホテルへ帰る。

1990.08.26(日)
  朝、一部はネックスト・ストップの人と会う。私は、キエフのチェルノブイリ同盟のイリーナ女史に話を聞く。「原発から2.5kmにある市場(土曜日に開く)に買い物に出かけ、事故が起きていることを知った。電話は市内通話しかかからなかった。通常、土曜日は午後からしか販売されないビールやウォッカが、その日に限って午前中から売られていた。避難の放送が夜10時〜11時にかけて繰り返しラジオで放送された(最初の放送は午前11時)。短期間の避難だから、食料は3日分、衣類は2着まで。避難は翌日の午後2時から5時まで続き、5時にはピリピャチは無人の町になった。被曝した人は、衣装代として200ルーブルを受け取った。ウクライナ保健省の大臣が今年の8月に代わったことにより、イリーナ女史とルキャノバ女史との交流が始った。大臣ユーリー・スピジェンコ氏は今のところ、緑の世界とチェルノブイリ同盟の話に耳を傾けている。・・・(イリーナ女史)」。バスで市内観光へ。途中HT氏とバスを降り、町を歩く。アイスクリームを買う。指をさし、数を指で示し、小銭を手のひらにのせておばちゃんに示せば物が買える。会話とはこんなものなのだろう。このまちでも‘物乞い’をみかける。3組。大人の男性が地下道や階段に寝転がったり、座ったり。子供連れの女性は道路に座って、マリアの写真を飾っていた。ルイノック(自由市場)で、きのこ、干したプラム、干しぶどうを買う。こんどは購入金額を先に示す方法。広場で、宗教関係の写真を売っている。ターザンの本もあった。ハウ・ツー・セックスの粗悪なコピーを若いお兄さんが小声でぶつぶつといいながら広げていた。13時20分頃、公園に行きドニエプル河を眺める。風のいたずらを楽しむ。HT氏の動物的感のおかげで、他のホテルのバー(支払いはドルのみ)で冷たいビールを飲む。2本。4ドル。昼食を食べにホテルへ。昼食後再び冷たいビールのあるバーへ。YF氏、HT氏、KT氏、MY女史、通訳のイリーナさん、それに私。ビールを買い占めようとして失敗。ウイスキーと何ともいえずまずい酒を買う。今日は私の仕事は無し。18時45分、キエフ発ミンスク行きの列車に乗る。冷たいビールの話ばかりするので、ヤコブレフ氏が苦労してハイネケン・ビールを2本調達してきてくれた。かなり苦労したようである。乗車前に、夕食用のサンドイッチを、ナロジチのおばあさんからもらったプラムと同じ袋の中に入れようとして、キエフのイリーナ女史に叱られる。‘ナロジチ・プラム!’。寝台車で4人の個室タイプ。列車内の空間線量率の測定を開始。列車の窓をスミア。私たちの部屋でサロンを開設。23時30分頃MY女史から測定器をあずかる。

1990.08.27(月)
  6時5分、ミンスク駅着。ワゴン車が迎えにきていた(白ロシア政府おかかえの運転手と、平和基金のお兄さん。名前を忘れた。)。ホテル・プラネッタへ直行。3階(12μR/h(約0.12μSv/h):10,000カウントになるまでの時間、約4分50秒)。少し眠る。部屋等のスミア。空気の吸引。水道水の採取。切手を買う。葉書が日本まで35カペイカ。キエフで書いた葉書を投函。私だけわがままをきいてもらい、セレモニーの現場からはなれホテルで料理(じゃがいも、にんじん、プラムなどは生のままでは国内へ持ち込めないため、全て水煮にした)。夕食時に平和基金の人(エゴロフ氏)とエコロジー同盟のおじさんで代議員(サビツキー氏)に会う。ドルの威力を知っている私はHT氏、KT氏とホテルのバーで冷たいビールを飲む。遅れてYF氏が現れる。少々疲れ気味の様子。ご苦労さま。

1990.08.28(火)
  9時12分頃、昨日のワゴン車とメンバーでチェチェリスクへ向け出発(ホテル前: 8〜9μR/h(約0.08〜0.09μSv/h))。自動車内での空間線量率を測定。平和基金のおじさんがソ連製の測定器を持ち出す。愛称をソスナー(松の木)という。20秒の時定数でミリ・レントゲンのデジタル表示。12時20分から約40分間、きのこ、みずごけ、松葉、土壌を採取(22μR/h(約0.22μSv/h))。14時4分頃、チェチェリスクの中心に到着(29〜49μR/h(約0.29〜0.49μSv/h))。やはり、全体がアスファルトで覆われている。空気を引こうとして、ポンプの余りのうるささに作業を中断。まわりが余りに静かである。屋外のトイレというものは穴がほってあるだけの素朴なもの。おばさんたちが案内してくれた草地は線量率が高い。無言の昼食会に招待される。昼食後市長さんの意に反してスケジュールが進行。よくわからん。HT氏と一緒に、セレモニーから逃げようとするが、捕まる。なにやらよく解らないまま市長室で挨拶をして汚染地帯を通ってゴメリへ向かう。17時45分頃、ストロジェビッチという集落(410μR/h(約4.1μSv/h))。でおばさんたちの話を聞く。ここに住んでもよいかの質問に‘だめ’とだけ答えた。おばさんたちも移住したい気持ちはあるが、お役所が何もいってこないと話していた。途中(18時9分頃)、信じられないほど高い汚染のある場所に案内された(2,200μR/h(約22μSv/h))。近くには、今はもう人はいないが、子供たちが遊ぶ公園があった。18時20分頃、汚染したものを埋めてしまうという、廃棄物処分場を見学(100μR/h(約10μSv/h))。壊した家なども埋めるそうだ。深さ約3〜5メートルの50メートル・プールのような穴。一応底にはビニールシートを敷くという。19時32分、ゴメリのホテル・ツーリストに到着(17μR/h(約0.17μSv/h))。3階(部屋の中: 11μR/h(約0.11μSv/h))。お湯が出ない。部屋等のスミア。水道水の採取。空気を引く。

1990.08.29(水)
  私は試料整理があるので、午前中のセレモニーは勘弁してもらった。HT氏も仕事のため、頭痛名目で中止。新聞を買う。2カペイカ。手動販売機の調子が悪く、2カペイカを失う。2度目体力にものを言わせてレバーを押し下げると新聞が出てきた。11時5分、ゴメリを離れブラーギンへ向かう。ワゴン車内での空間線量率の測定。12時56分、ブラーギン市に到着(27〜28μR/h(約0.27〜0.28μSv/h))。やはり町はアスファルトで覆われている。通訳のイリーナさんの努力で、ブラーギン市に宿泊できることになる。14時頃ホテルにチェックイン。2階(22〜36μR/h(約0.22〜0.36μSv/h))。空気を引く。水道水の採取。市役所を表敬訪問。市役所のトイレのドア等をスミア。15時7分頃、埋められた村へ向かう。15時35分頃、埋められた村に到着(620μR/h(約6.2μSv/h))。住民が帰れないようにするため、家を壊して埋めた村が7ヶ所あるとのこと。15時55分、事故当時に汚染された肉を満載した貨車が放置されている場所へ向かう。16時3分頃、放置場所に到着。誰が何時この場所に運んで来たかは不明とのこと。原子力発電省の管轄であるとのこと。処理は、貨車全体を埋葬しておこなうとのこと。但し、全車両を合わせると40両にのぼる。引き続き、移住を強制された人々が戻って来ている村へ出かける。途中に検問所があり、中へ入れてくれない。同行した市長さんが交渉している相手は頑として拒否。さすがに地元の人、別の道を通って村に入る。約200人が住むサマショール(わがままな人というような意味だそうだ)の村(18〜24μR/h(約0.18〜0.24μSv/h))。村にある店で飲料水を買って飲む。店には日用品と食料品がほんの少しだけ置いてあった。市長さんは店に集った村人との話し合いの中で、多くの不満の声を浴びる。ブラーギン市に帰り、市長、エコロジー同盟のおじさんたちと会食。意気投合。約2名飲み過ぎ。

1990.08.30(木)
  1名が飲みすぎで朝食に現れず。ブラーギン市のミルク工場へ向かう。牛乳の測定に使われる検出器は、1cm程の厚みの鉛遮蔽を箱の中に置かれた、約2πの立体角を持つGMカウンターである。計数表示部にはデカトロンがつかってあり、時計はアナログ式であった。全体はかなり丈夫そうな鉄製で、検出部と表示部が分かれている。測定結果はきちんとノートに記入してあり、その丁寧さには驚いた。ただ、コンピュータというものがないため、データの整理はあまり進んでいないように思われた。ちなみに、この工場の牛乳処理量は月産約3,000トンで、そのうち約1.5%が基準値(1リットル当たり370ベクレル(日本の暫定規制値は200ベクレル))を終えているとのこと。地元料理をごちそうになるためにドニエプル河岸へ向かう。途中で子供が疎開してしまったために廃校になった小学校を、チェルノブイリに関連した絵の展示場として使用している建物を見学。死亡した消防士の母親にも会った。試料採取(220〜290μR/h(約2.2〜2.9μSv/h))。土壌、松葉、それに木を一本切り倒す。昨日、酔ったどさくさで約束したもの。ドニエプル河畔へ(21μR/h(約0.21μSv/h))。川の水を採取。トンボもチョウチョも飛んでいた。とれたての川魚を大きな鉄鍋で煮込んだ料理をごちそうになる。胡椒の効いたあっさり味。汚染した大地にどっかと腰を据えて食べる。付近には誰もいない。以前はよく人が集る場所だったとのこと。ものすごく雄大でゆったりとした場所。キエフのイリーナ女史と別れる。彼女はこのドニエプル河を船で下ってキエフまで帰るという。帰り道、川で魚を釣っている人を見る。15時20分、ミンスクへ向けて出発。2、3度道を間違える。列車のすれ違いで道路がふさがれ、一時渋滞。1度給油。1度パンク。21時40分、ミンスクのホテルに到着。平和基金のエゴロフ氏と会食。

1990.08.31(金)
  朝は、再びお料理(試料作成)のためセレモニーをお休みさせてもらう。じゃがいもとにんじんを料理。午後から水文気象委員会(ここの玄関に畳二枚分くらいの大きな放射能汚染地図が掛けてあったのでHT氏が分割して写真撮影)を見学(イワノビッチ氏)。オルテックの半導体検出器が3台、IBMのパソコンが数台、キャンベラのサンプルチェンジャー付きのウエルタイプのNaI検出器が1台。ストロンチウム分析用の化学フード、原子吸光装置、GMタイプの測定器、ストロンチウムの回収率が90〜98%という分析専門のおばちゃんたち。土壌は直径20cm程度、深さ5cmのリングを地面に打ち込んで採取している。土壌試料は表と裏の両方を測っている。感心した。同様の研究所が白ロシア共和国内に3ヶ所あるという。プルトニウムは他の1ヶ所で測定しているとのこと。地下鉄に乗り、ホテルまで歩く。5カペイカ。切符を買うのではなく、5カペイカのコインを改札のお金を入れる穴に投入。全線同一料金。ピロシキを買う。お兄さんが手から勝手にお金を持っていったのでいくらかはわからない。美味。本屋でフォン・チェルノブイリ他を買う。ドルショップで缶ビールを買う。明朝6時の飛行機。列車、飛行機の時間は全てモスクワ時間。従ってミンスクでは明朝5時ということになる。朝3時集合ということになる。寝ないで起きていよう。

1990.09.01(土)
  モスクワに朝早く到着。寒い。霧雨で気温は7度。すぐにホテルに入りたいのに、チャーターしたバスの運転手がいない。ホテルに入って仮眠。チェルノブイリの英雄たちが葬られている墓地へ向かう。遺体は鉛の棺に納められ、ハンダで封じてあるという。墓の前で黒パンを食べ酒を飲む。市内をバスでめぐりホテルへ。途中、ホテルを出る前から予定していたプログレス(出版社)で辞書類を大量に手に入れる。全てイリーナさんからのプレゼント。プログレスは彼女の勤めている出版社とのこと。知らなかった。ホテル脇のカフェテリアで、ソ連に来て初めてドリップしたコーヒーを飲む。通訳のイリーナさんとのお別れ会。荷物を無理やり鞄に押し込んで早めに眠る。

1990.09.02(日)
  動物園へ行く。あとは日本へ帰るだけ。モスクワの中心にある立派なホテルで休んで、帰ろうとしたら静岡のHWさたちに会う。ホテルの前で‘物乞い’を見る。男の子3〜4人。17時、ホテルに集合。空港へ向けて出発。帰りは荷物検査にひっかからなかった。荷物の重量38kg。

1990.09.03(月)
  昼前に成田に到着。植物防疫所で土壌を熱処理(事前に農林水産大臣の許可を得ていた)。無事国内へ持ち込む。旅行は終わった。

ソ連で会った人々
(省略)

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